公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

有機化学の歴史から
庄野 達哉


 1992年は有機合成化学協会の創立50周年の年に当る大変おめでたい年である。心から祝意を表する次第である。さて,当協会が50年前に創立されたということは当然ながら50年前には既に有機合成化学という学問が存在したということである。それでは一体有機合成化学は何時の時代に始まったのか。この一見簡単な疑問に的確な解答を与えることはできそうにないが,このようなことに筆者が興味を引かれたのにはいささかの理由がある。

 昨年,即ち1991年に筆者らは京都で有機化学に関する国際会議を開催したが,この会議にスイスから招待したplenary speakerの一人から筆者はある古書を頂いた。それはLeipzig大学のHermann Kolbe教授によって書かれた有機化学の教科書であって,1883年にLeipzigにおいて出版されたものである。

 Hermann Kolbeと云えば1849年に報告されたカルボン酸の電解によるアルキル基の二量化で有名である。ところで1878年には日本化学会が創立されていることを考えると有機化学は1883年には既に基本的には今日の姿に近いものにでき上がっていると考えても不思議は無い。そこで筆者もその時には取り立てて興味を感ずることなく,書架の片隅に立てておいた。しかし,最近になって,筆者らの教室の行事の一環で有機化学の回顧と展望について話しをする機会があり,その資料の一つとしてこの本を改めて読んでみて実は大変驚かされた。先の想像は全く外れており,この本に書かれている有機化学は真に興味深い,ある意味では奇妙なものであった。

 さて,先に述べたように1883年と云えば有機化学にとってそれほど遠い過去ではない。例えばH. Caro,C. Graebe,C. T. Liebermannらによってアリザリンが合成されたのは1868年であり,A. von Bayerによってインジゴが合成されたのは1878年である。また,ことのついでに歴史を調べてみると,よく知られているようにF. Wohlerによってシアン酸アンモニウムから尿素が初めて合成されたのが1828年であり,ベンゼンの6員環構造を初めてA. Kekuleが提唱したのが1865年である。従って有機化学の最初が1828年の尿素の合成であり,また近代有機化学の祖は1860年に分子の概念について発表したS. Cannizzaroであろうことは比較的衆目の認めるところである。

 また,冒頭の疑問すなわち有機合成化学の誕生についての一つの説は,1868年にアセチレンからベンゼンの合成に成功したP. E. M. Berthelotが,当時化学の主流が分析的であったのに対して合成の重要性を提唱したのがその最初とするものである。

 さて,このような背景をもった上で先のHermann Kolbeの教科書を眺めてみると,この教科書は1883年という時代を考慮しても,かなり奇妙な内容を持っている。特に芳香族の化学については特異である。即ち,KolbeはKekuleのベンゼン環構造を全く認めておらず,むしろ幻想であると決めつけているようである。この本の内容をくわしく紹介することは本稿に与えられた使命ではないが,この本に関する限りKolbeは頑迷であるとの印象を持たざるをえない。Kolbeのみならず,歴史に名を残す多くの化学者もまた晩年はむしろ頑迷であったと伝えられている。さて,これらの著名な化学者の業績が今日の化学から見れば必ずしも正しい訳ではないのは上記したKolbeの例でも明らかである。しかし彼らはその独創性の故に疑いもなく化学の進歩に偉大な貢献をした。これは大変に重要な点である。現在,日本有機化学と範囲を限っても殆ど無数と云える研究が報告されており,その全てが恐らく間違ったことは述べていないであろう。しかしこの中でどれだけが後世,その独創性を以て直接あるいは間接に化学の進歩に寄与したと評価されるか,甚だ心許ないことである。どれかの研究をその時点で無用であると決めつけることは至難であるが,全てが有用であろうとする考えもまた何れ破綻せざるを得ないであろう。化学の進歩にとって真に重要なものは何か,を見失うことなく50年後の当協会の創立100周年には化学の歴史の中に多くの日本人の名前が認められることを期待したいものである。


(平成4年7月7日受理)
ページ更新日
2012年4月23日