公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

天然物合成における高効率合成の重要性
大石 武


 R. B. Woodward教授によるストリキニーネの全合成がJACS-Communicationに発表(1954年)されたとき,私は大学院学生だったが,その中にもちいられていた反応過程の多くを理解することができなかった。この合成は,当時の世界の水準からしても桁違いの業績で,ましてや駆け出しの学生にとっては異次元の世界のできごとのように感じられたものである。あれから40年近くたち,そのWoodward教授ですら当分困難だろうとしていたエリスロマイシンAの合成も既に10指にあまる研究室により達成されている。そしてあのパリトキシンですら岸教授によって合成された。これほどまでに発展してきた天然物合成化学の分野は,これからどの方向に進むのか,大いに気になるところである。

 この命題に関しては,以前から多くの方々によって論議されてきたが,一つの趨勢は,ライフサイエンスの一環として生命規象とのかかわりのもとに研究を進めるということであろう。核酸化学はさておき,最近は糖質化学が脚光をあびている。これはもとより生体における糖鎖の役割が明らかになるにつれ,さらに詳細な知見を得るのに物質レベルでの研究が不可欠となりつつあるからである。低分子化合物でも,生体の恒常性をつかさどる超微量成分,プロスタグランジン類の研究において,有機合成化学の果たした役割については今更云うまでもない。生命現象とどのようにかかわるかの論議はここでは避けるが,少なくとも必要とされる物質に関し,必要量を迅速に供給するのが天然物合成化学に課せられた基本的な役割の一つであると考える。このような観点から,私は,高効率合成の重要性を改めて強調したい。

 平成4年8月のはじめに,有機合成化学協会創立50周年記念国際シンポジウムが開かれ,大盛況のもとに終了したが,中心課題の一つは金属-不斉リガンド系を基盤とする不斉触媒設計であった。まさに高効率反応を目指しての研究で,優れた成果が出現してきたのは誠に素晴らしいことである。ここ10年程高選択性が強く追求されてきたが,高選択的だからといって高効率であるとは限らない。物質生産という面からすればここが泣きどころだったわけだが,ここへきて,ようやく高選択的であるのみならず高効率であることを目指すことができるようになってきたというのが実状である。ただ,この分野はだまっていても多くの優れた研究者が熱を入れるはずで,ここでとやかく云う必要もない。私が特に強調したいのは別の面に対してである。

 複雑な系においてはその合成に多段階を必要とする。従って,一つの工程の効率をあげるだけでは解決できない場合も多く,分子全体の構築を見通しての綜合的な構想が重要な役割を担っている。その過程では,精密単位反応とは一味違った,例えば優れたセグメント合成ストラテジー,いくつかのセグメントの効率的組み立てに関する方法論,あるいは斬新なタンデム合成法等,複雑な系を構築する上で効果的新手法が生まれるだろうという期待感がある。さらに,コンピューター化学がこれらを推進する上できわめて有効に働き,精緻かつ有益な情報の提供を通じて合成構想に画期的進展をもたらす可能性がある。これらの研究は,一般的には地道で,新奇性が前面に出てくる単位反応の開発に比して華麗さに乏しいが,先に述べた必要物質の提供という観点からすれば実質的にきわめて重要で,今後ますます力を入れなければならないと考える。

 一方,顕著な活性は有するものの構造があまりにも複雑な場合は,合成すること自体が目的となってしまうことが多かった。従来はともあれ,今後はそれだけではすまされない。きわめて困難な課題だが,そこを何んとかするのが真の研究者である,と考えたい。最近,タキソールがきわめて有望な抗腫瘍性化合物であることが判明したが,稀少植物成分で大量供給はきわめて困難である。それなのにまだ何人も少量合成にすら成功していない。現在は,類縁植物から得られる類似化合物からの誘導や,細胞培養による方法等が検討されているが,合成化学者とすると何んとも悔しいことである。植物や微生物は,この種の複雑な系をやすやすと生合成している。ではその方法をまねたらどうか?一見夢のような着想だが,その実現に向けて既に研究が始まっている。この雄大な構想のもとに研究を進めている方々に敬意を表すると共に,わが国においても,このような新しいコンセプトに基づく研究に対し,蛮勇をふるって挑戦する若人が出てくるのを期待している。


(平成4年8月7日受理)
ページ更新日
2012年4月23日