公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

超える
島 武男


 絹の人の感性に対する相性のよさと,合成繊維の形保持性等の機能性を合わせもっている繊維の創製は,多くの高分子研究者の夢であった。実は十数年前迄,私もそれに挑んでいた一人であったが,遂になし得ずして研究分野を変えてしまった。ところが最近,最高級の絹がもつ染めた色,風合,優雅さ等の良さの他に,皺にならない,洗ってもすぐ乾く等の合成繊維の優れた機能性を兼ね備えた,新合繊といういわば絹を超える織物を目にするようになった。素材はポリエステルであって,ポリペプチドではない。繊維の形状の他に,分子の高次構造等に独特な工夫が凝らされているという。

 自然物を師として,科学や技術が師を超える物を創製した例は多い。師の機能を超えるためには,その機能の綿密な解析と機能発現の機作の解明は不可欠である。その上で,ニーズに適合する機能発現の方法が,師そのものにとらわれることなく新たに構築されている。

 さて,私はいま医薬の研究に携わっている。医薬の分野においてこの十年間に遺伝子工学はさまぎまな恩恵を与えてくれた。特に生理活性ヒトタンパク質が,純粋かつ大量に供給されるようになり,難病に苦しんでいた多くの患者に福音をもたらした。

 生体タンパク質のなかには,ある種のサイトカインのように,分子の一部を除いたり,構成するアミノ酸の一部を他のアミノ酸で置換することによって,活性の著しい向上や副作用の大幅な低減が,実験から予測されるものもある。しかし,人が医薬として使う場合,このような改変タンパク質には抗原性の懸念がでてくる。また,高分子量タンパク質は経口剤や経皮剤としては使えず,専ら注射薬として利用される。製造面では,一般の化学品にない様々な制約があって,設備費や試験費がかさみ,製造コストは著しく高くなる。これでは慢性の疾患には使い難い。だから今ではこうした欠点が克服された,タンパク質を超えるものが強く望まれている。

 生理活性の生体タンパク質を師とし,医薬としての有用さでそれを超えるものを得る場合も,師の構造と機能についての細密な解析は不可欠である。タンパク質の機能は,大きな分子の中の限られた部位によって発現されていることが多い。この機能発現部位を別の低分子化合物に置き換えることができれば,高分子量に起因する様々な問題が解決されるであろう。実際,タンパク質を構成するごく一部のセグメントに当たるオリゴペプチドが,もとのタンパク質に近い活性を示すものもある。しかし,巨大分子の複雑な高次構造によって機能が発現されている場合,その機能発現部位の解析にはタンパク質工学の助けを借りなければならない。

 最近のタンパク質工学の進歩には目を見張るものがある。遺伝子操作,X線結晶構造解析やNMR等の技術と情報処理技術が融合した壮大な技術体系となった。生理活性タンパク質の機能発現部位だけを別の分子で構築し,さらに医薬として望ましいように修飾や改変が施された化合物は,有機合成化学とタンパク質工学の協力により生まれる筈である。

 ヒトゲノム計画が進行し,二十一世紀初頭までにヒトの全遺伝子が解読され,生命現象の解明に役立てられるようになるといわれる。これらの情報から,医学・生物学・タンパク質工学・有機合成化学の連携によって,沢山の有用な医薬品が創製されるであろう。

 細胞性免疫さえも今では化学の言葉で語られる。多くの生命現象が分子レベルで論じられ,医学や生物学が時には化学に接近し,時には化学と共鳴することによって学問の体系を飛躍させている。有機合成化学の側からも医学,生物学やタンパク質工学に近づき,彼らの用語に馴じみ,討議の場にも参画することにより,共同のプロジェクトを起こし,大きな成果にも繋げるようにして欲しい。

 原子団や分子の性質を熟知し,複雑な分子も意のままにつくれる有機合成化学研究者が,異分野の科学,技術やニーズに興味を抱き,また異分野の研究者との交流を積極的に推し進めるならば,自然物を師とし,師の機能を超える様々な有用分子の創製においても,主導的役割を果すようになるであろう。

 有機合成化学研究者が“超える”分子を次々と生みだし,人類の幸福に大きく貢献することを期待している。


(平成3年11月21日受理)
ページ更新日
2012年4月23日