公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

ペニシリンの特異な構造に引かれて
滝田 智久


 若い頃受けた強い印象が,後の人生に大きな影響を与えたという話をよく見聞きするが,私の中にそのようなものを敢えて探すとペニシリンが浮かんでくる。

 敗戦後の混乱期,旧制高校の学生であった私は,当時「奇蹟の薬」と云われたペニシリンの話を聞き,その奇妙な構造式と,青かびによってつくられることに強い感銘を受けた。これが潜在的に影響したのであろう。私は農芸化学科に進み,卒業後直ちに日本化薬に入社した。当時日本化薬は国内におけるペニシリンの最大のメーカーの一つであった。最初に与えられた仕事はペニシリンの生産性の向上であった。この仕事を通して私は微生物が生理活性物質を如何に効率よく生産するかを身をもって体験する機会を得た。

 その後ブレオマイシンの研究が縁で,私は梅沢濱夫先生のもとで働くことになった。先生は生物学の基礎知識としての有機化学の重要性を強調され,私にペニシリンの全合成に最初に成功したMITのSheehan教授のもとに留学することを薦めてくれた。与えられた研究テーマはセファロスポリンの合成であった。その滞米中の1965年,Woodward教授がノーベル化学賞を受賞した。その受賞講演の主題は何と授賞式直前に完成したセファロスポリンの全合成であったし,私はその講演をボストン郊外のブランダイス大学での祝賀会で直接聞く機会に恵まれた。その講演はまさにart of organic synthesis(受賞理由)そのものであった。

 小生の滞米中に,日本におけるブレオマイシンの臨床研究は順調に進み,梅沢濱夫先生より帰国して直ちにその構造研究に従事するよう命ぜられた。現在の発達した分離技術,分析機器のない時代で,構造決定にてこずったが,構造を解明すると,それを基にしてブレオマイシンの作用機作を分子のレベルで諭ずることが可能となった。梅沢先生の持論であった生物学における有機化学の重要性を実証して,ささやかな恩返しをすることができた。

 最近,私の身近で,活性ならびに構造の両面から興味ある微生物の代謝産物が二つ発見された。一つは微生物化学研究所の竹内富雄博士らによるスパガリンの発見である。その誘導体デオキシスパガリンは腎移植の拒絶反応の治療に有効であることが確認された。この物質は現在化学合成により生産され,近い将来医療に貢献することが期待されている。この物質は鎖状構造で,R-CO-NH-CH(OH)-CO-NH-R′の部分構造を有する。培養ろ液(水溶液)からこのような部分構造を有する物質が単離されることは,私の有機化学の常識を越えていた。さらにこの部分構造は,ペプチドホルモンのC末端にみられるアミド構造の生合成中間体と考えられる点からも注目される。

 第二は日本化薬・総合研究所の嶋田信義博士らによるオキセタノシンの発見である。この物質はオキセタン環を糖部分に有するヌクレオシドで,抗ウイルス性を有する。この物質は有機合成化学者にオキセタノシド(4員環配糖体)の化学という新しい研究テーマを提供した。さらにこの物質をリード化合物とする抗ウイルス剤の研究が現在活発に行われている。

 この小文に示した後の三つの化合物は有機化学者にそれぞれ問題を提起したと思う。ブレオマイシンはDNAの特定部位の認識および切断に関して,有機化学的アプローチが可能であることを示した。スパガリンは有機化学者の常識を越える物質が天然に存在することを示した。オキセタノシンは有機化学者が誰も考慮しなかった4員環配糖体の存在を示した。

 顧みると,今日隆盛の微生物の代謝産物の研究は,ペニシリンに端を発するということができる。ペニシリンならびにセファロスポリンを含むβ-ラクタム抗生物質は,人類の健康に最も貢献した医薬品の一つであり,細菌の細胞壁の生合成のプロセスの解明に貢献した。また,その優れた活性と特異な構造は,多くの有機合成化学者を引付け,天然物を凌駕する多くの誘導体の合成へと導いた。

 今後も,微生物の代謝産物をリード化合物として,有用な生理活性物質の創製と,その物質が示す生理活性の分子レベルでの作用機作の解明に,有機合成化学者の一層の貢献を期待したい。


(平成3年12月7日受理)
ページ更新日
2012年4月23日