公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

創薬とメディシナルケミスト
犬飼 紀喜


 現在日本人の平均寿命は男性76歳,女性82歳,65歳以上の高令者は約1,500万人で,全人口に占める割合は12%程度であるが,人口の高令化は今後急速に進み,2,000年には65才以上の高令者人口は2,200万人に達し,その全人口に占める割合は17%(日本人の6人に1人)にもなると予想されている。こうした高令化社会に対応しうる医薬品,例えば動脈硬化症,老年痴呆症,骨粗鬆症,癌等の治療薬の研究開発は,製薬企業の研究者にとって大きな課題である。

 医薬品の研究開発には多大な研究開発費と長期の研究開発期間を必要とする。一つの新薬を開発するにも,目的とする疾患の病因の解明を含む基礎研究から始めて,多くの合成化合物や天然物あるいは,生体関連物質等の化学,生物あるいは医学的研究を経て,運良く新薬の種や芽になる化合物が見い出されたとしても,その後の応用開発研究,臨床研究,そして厚生省による認可を得て新薬として世に出る成功確率はわずかに1万分の1と極めて難しく,まして真に独創的新薬が創製される成功確率は10万分の1と言われる。この間最低でも10年~15年の研究開発期間と150億円もの研究開発費が必要である。現在各製薬企業の研究開発費は総売上高の10数%にも達しており,なお年々増加している。

 最近の日本の製薬企業の研究開発力は,漸く欧米レベルに到達したと言われるが,真に独創的な新薬を生み出す基礎研究力は,欧米製薬企業に比べ遥かに及ばない。日本の製薬企業にとって膨大な研究開発費の負担に耐えながら,如何に基礎研究力をつけ,世界の一流製薬企業に伍して継続的に独創的な新薬を創製しうるかが,国際的企業として21世紀に生き残れるかどうかの鍵である。医薬品の主体は有用な薬効を示す有機化合物である。創造的なアイディアや技法に基づいた医薬品の創製を称して「創薬」,その研究を創薬研究と言う。創薬には化学、生物学,物理学,医学等多くの基礎学問の結集が要求される。その中で,我々の専門である有機合成化学は,極めて多様かつ重要な形で創薬研究に係わっている。創薬研究の第一歩は有機合成化学の研究者-メディシナルケミスト-と生物学の研究者が,互いに密接な連携のもとに研究し,新薬の種を見い出すところから始まる。勿論研究ターゲットとしての疾患の病因解明やスクリーニング系の開発は必須であるが,同時に自分達の手で見い出した生物現象や作業仮説を検証しながら,それらをどう化合物に結びつけ,目標とする薬効を持った新薬の種や芽に育てて行くかは,一つにメディシナルケミストが,化合物と生体の相互作用を理論的に理解しながら,効率的に有用な化合物をデザイン(分子設計)し,合成しうるかにかかっている。まさにメディシナルケミストの研究能力によるところが大きい。さらにここ10年間に目ざましい発展をとげた遺伝子工学は,従来医薬品として開発されてきた合成化合物や,微生物あるいは植物由来の生動活性物質のみならず,生体生理活性蛋白質やその修飾あるいは改変体の医薬品としての開発を可能にした。また蛋白質工学の発展は,受容体や酵素等の生体機能性蛋白質の三次元の構造解析とラショナルドラックデザインを可能にした。近い将来,こうした研究に基づく成果として,例えば生体高分子機能物質に代る低分子化合物が,新薬として開発されることも期待される。勿論これを可能にするためには,ここでもメディシナルケミストが,どれだけ蛋白質工学や理論化学,生物学の研究者と密接な連携がとれるかにかかっている。

 こう考えて見ると,創薬研究に対し強い意欲とバイタリティを持ち,独創性があり,かつ各方向の研究者との協調性がある優秀なメディシナルケミストがどれだけいるかは,その製薬企業の研究力を占う一つのバロメーターになろう。学会においても創薬研究の中にしめる有機合成化学-メデイシナルケミストリー(医薬品化学)-の重要性が強く認識されてきている。日本薬学会では昨年医薬品化学部会を設立,IUPACでは1987年に有機化学部会からMedicinal Chemistry Sectionが独立した。筆者も製薬企業に働くメディシナルケミストの一人として,若い研究者と共に,創薬を通して社会の健康と福祉に貢献している自負と責任を持って,21世紀の高令化社会に対応しうる有用な医薬品の研究開発に邁進したい。


(平成4年 3月17日受理)
ページ更新日
2012年4月23日