公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

研究に王道なし
堀 幹夫


 研究上の一期一会は,科学史上においてもきわめて重要である。私的な話で恐縮であるが,64年の人生を振り返ってみて,今日筆者のあるのは,チャールズ C. プライス先生との出会い,と記しても過言ではない。1961年1月,ペンシルベニア大学化学科に博士研究員として席を得た時,3d軌道を有する硫黄の原子価殻の拡大を含むベンゼン環の創製を理論的に想定した「チアベンゼン骨格とそのイレン-イリド共鳴に関する研究テーマ」に接した時の驚きは,誠に大きかった。当時わが国の研究状況からみて,それは考えてもみなかった発想であった。J. D. ロバーツ教授著,Highlights in Organic Chemistryの中で,世紀に一つ出るか,というトピックスと記され,彼を訪れる世界の碩学一人一人との出会いは,まさに研究から学問が創られていくのを痛感する日々であった。

 1961年7月から7ヵ月間、教授は筆者に研究室を託してご家族ともども京都に移り,その間京大,阪大そして阪市大で日米フルブライト交換教授として名声を高められた。筆者は日本の彼からの連絡を通して米国の大学の実情を体得し,彼を通じての国内外の優れた学者との交流を増大する好機に恵まれた。さて,きわめて不安定なチアベンゼンに関する研究は,その後岐阜で完成されて安定に単離され,チアベンゼン類を基点とした有機化学,有機合成化学そして新しい医薬品の創製に反応種として大きく発展している。さらに,それらは他のカルコゲン元素への活発な展開へと移っている。

 いわゆる窒素や酸素を含む複素環の化学の発展においては,アルカロイド化学がその代表として研究の大きな対象とされてきた。現在では酵素阻害物質やレセプター概念に基づく医薬品の創製への道をはじめ,多くの生理活性物質や有機超電伝導物質を含む各種機能性材料へと進み,さらに近年は生命現象との深い関連へと拡大中である。分子生物学や分子遺伝学の研究には,最新の有機化学の知識なくては解明できない分子レベル-細胞レベルヘの再構築への道が追っている。そして,有機合成化学の分野では遷移金属錯体や典型元素の特性が活用されて,有機金属化学の研究とともにヘテロ元素有機化学へと展開中である。1987年7月,わが国で第1回ヘテロ原子化学国際会議が神戸で開催され,それを機に,国内外で開かれていた硫黄・リン化合物討論会もヘテロ原子化学討論会と改称された。筆者が米国から帰朝して30有余年,現在わが国の有機化学そして有機合成化学は,研究上の国際化と相まって大きく繁栄し,その中で筆者も今日を迎えている。しかし,すべてに熟成の時期とは云えない。輝ける有機合成化学への端緒にあると認識すべきであろう。

 21世紀のわが国の産業界が国際的に貢献できるためには,独創性を発揮できる人材の育成とその環境整備が焦眉の急である。基礎研究を主体とする大学などは,産学官が協同して現在の数倍以上の施設投資と人員増をすべきであらう。独創的な研究は一朝一夕に醸成されるものではない。C. ローレンツ博士は,著書「ソロモンの指環」(日高敏隆訳)の中で,「長い間ガンの子は卵の中から私を見つめていた」と。孵卵器の中で,卵からヒナになりたてのハイイロガンは,博士を母親と誤認して生涯彼の後を追う。それを「刷り込みの現象」としてノーベル賞を受けている。これは鳥類の本能からくる盲信である。吾人は諸々の知識など無批判に疑いもなく信じていることが多い。事実を信じる眼力の涵養こそ,科学者の第一歩である。時に世に鉄則と呼ばれる法則も,新事実の前には色褪せて,それを基点に新しい理論の萌芽へと展開されてきた。吾人が盲信,不信そして信を繰り返してきた中に,新素材,エネルギー問題,環境,西洋医学と東洋医学,ライフサイエンス,薬とバイオテクノロジーなどなどへの発展がある。これらは,決して目的志向的な発想から創られたものではない。懸命な学問的に幅広い好奇心と鋭い観察力から発するひらめき,特にカギを握るのは,豊かな知識と経験から湧出する直感力に加えて強い精神力と奇抜にして綿密な実験計画から達成せられるものであったことを,特記しておきたい。

 創造性のある研究に,王迫はない。


(平成5年8月18日受理)
ページ更新日
2012年4月23日