公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

転写調節からのアプローチによる創薬を求めて
野口 照久


 有機化学者は,生命維持の恒常性に関与する酵素やホルモンなどの生理活性物質,あるいはそれらと機能的に類似する分子修飾による創薬を長年の夢としてきた。

 近年の分子生物学の発展により,今日では生物活性の細胞内情報伝達系や,遺伝子の発現制御の分子レベルでの解明が進むにつれ,このような夢は細胞内分子の機能を調節する分子の合成研究へと形を変えて具現化しつつある。なかでも遺伝子の転写調節は,発生、分化,増殖,外的刺激などに応答した生体の最も基本的な調節機構であり,新しい創薬の標的として注目を集めている。

 最近,転写調節に重要な役割を果たす蛋白質の因子,転写因子(Transcription factors)の重要性が認識され,その研究の発展には目覚ましいものがある。転写因子は遺伝子の発現調節部位に結合し,転写の促進または抑制に働く。これら転写囚子は大きく基本因子と調節因子にわけられる。特に,それぞれの遺伝子に特異的に作用する調節因子は,現在までに約300種が知られているが,人間では約3,000種あるといわれているほど多様性に富み,画期的な創薬をこれまで可能としてきた細胞膜受容体と同様,組職特異的,反応特異的に機能している。

 また現在までに知られている癌遺伝子の3分の1が調節因子の遺伝子であること,ステロイドや免疫抑制剤サイクロスボリンA,FK506などが調節因子に作用すること,例えばエイズ(HIV)の増殖に関与するtatのようなウイルス特異的な調節因子が存在することなど,疾患との関わりも注目されている。

 これら調節因子は,その分子内にDNA結合領域と,蛋白質相互作用領域を有し,DNA-蛋白,蛋白-蛋白間で様々な結合の可能牲があり,そこから特異性が生じ,外界からの複雑な情報に対応して反応できるようになっていると考えられている。

 生体分子の構造に基づいて生体内の機能を解明しようという分子構造生物学(Molecular Structure Biology)は,X線構造解析,NMR,コンピューターシュミレーションの技術などの進歩により,最近目覚ましい発展を遂げつつある。

 調節因子内の結合領域に関しては,これらの技術を基盤として,詳細な三次元構造の解析がなされ,この領域にZnフィンガー,ヘリックスーターン-ヘリックス,ロイシンジッパーなどいくつかのモチーフ構造のファミリーが存在することが明らかになると同時に,DNA-蛋白,蛋白-蛋白間の詳しい結合様式の研究も進行している。事例として,サイクロスボリンA,FK506とそれぞれの結合蛋白との結合様式の詳細もこのような技術を利用し明らかとなった。これらの技術を背景とする分子構造生物学の発展は,これら高分子間の相互作用に関与する低分子化介物のドラッグデザインを可能とした。

 例えば,炎症性サイトカイン刺激やウイルス感染により,コンポーネントの一つがリン酸化されて遊離し,活性型となるNF-κBにみられるような調節因子自身の活性調節機構の解明も進みつつある。そのほかにもステロイドによる遺伝子発現調節に関与するAP-1,エストロゲン応答性転写因子(efp)などで,活性調節機構の解明が進んでいる。

 このような最近の知見から,転写調節因子の概能や構造,その活性調節機構,DNAやほかの蛋白との相互作用が明らかになりつつある。これら因子の分子レベルでの研究の進歩は,従来とは異なったコンセプトに基づく創薬研究のシーズを我々に提供してくれる。それと同時に,この分野での有機合成化学者の活躍の場が広がり,これら高分子化合物間の相互作用に影響を与える低分子化合物の発見の期待が高まってきた。

 分子生物学を基礎とし,細胞生物学や遺伝子工学を応用とし,さらには分子構造生物学を加えた新しい分子医学が生まれつつある現況の中で,画期的な創薬研究法を有機化学者に提供している今日である。その手法を駆使した転写調節や調節因子の研究による新たな転写制御因子の選択,それに関与する遺伝子や疾病遺伝子のクローニング,機能解明のための構造解析,コンピューターシュミレーション,さらにはメディシナルケミストリーと連携した構造-活性相関の研究とを動員総合化することにより,有機合成化学者の夢が形を変えて明日にでも実現されようとしている。


(平成5年9月29日受理)
ページ更新日
2012年4月23日