公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

フィーリングサイエンス-五感の科学-
鶴田 治樹


 人体の恒常性(ホメオスタシス)はホルモン,オータコイドで代表されるような微量有機化合物によって維持されていることが分かりつつあり,百年前までは人知のおよぶところではないと考えられてきた健康とか病気などの生命現象も分子レベルで考察できるようになってきた。そして,学際的レベルでライフサイエンスの研究が行われるようになり,医学,化学,物理,生物といった学問領域の壁が,かなりのスピードで取り払われてきている。

 しかし,人間独得の感情である“喜ぶ,悲しむ,怒る”といった面の科学となれば分子レベルの考察とはいかず,まだまだ神域に近いものであろう。

 われわれの生活に重要な感覚として五感と呼ばれる感覚がある。視覚,聴覚,触覚,嗅覚,味覚であるが,視覚は電磁波のエネルギー,聴覚は音波のエネルギー,触覚も位置あるいは運動のエネルギーといった物理エネルギーが引き金になって生ずる感覚である。

 一方、嘆覚と味覚は有機化合物によって引き起こされ,コントロールされるので“化学的”あるいば“有機化学的”感覚とも云えよう。

 味覚は舌で塩味,甘味,酸味,苦味という四種類の表現を使い,呈味化学物質を区別するだけではなく,食べ物の香りと一緒になって食欲を生じさせ,健康維持に役立つ。料理の材料,味つけの方法,食習慣は民族や国によって異なり,風土や歴史を知ることができる。わが国ではとくにうま味やこく味といった他国ではみられないデリケートな表現がよく使われる。味覚を道して食文化を語ることができる。

 嗅覚は人間が生活している空気中にただよう匂いをもった有機化合物を媒体とし,種々の情報を脳に送っている。腐臭のような悪臭や花の好ましい匂いのような情報だけではない。鮭が生まれた川の匂いを求めて帰ってくる神秘的な現象は嗅覚によるといわれているし,われわれの生活の中での匂いの記憶は時間が経っても脳にプリントされ,再び同じ匂いを嗅いだときは昔遭遇したその情景をありありと思い出させる。小説などにもよく利用されるが,これは本能的な感覚である。

 匂いの生理的あるいは心理的研究も行われている。異なった月経周期をもった女子学生も同じ寮で生活しているうちに全員の月経周期が一致することが知られているが,これも匂い物質が原因であるといわれている。  匂いの種類によって脳を興奮させたり,リラックスさせたりすることが脳波の測定結果から明らかになりつつあり,この効果を利用してストレス解消や仕事の能率アップを期待して,この目的に合った匂いを流しているビルも最近見受けられる。匂いの種類によっては免疫機能を高める可能性も指摘されている。

 視覚の科学の中でも有機化学は色素や写真学といった場面で大きな役割を演じている。眼球が光をうけたあとのロドプシンの化学は最先端の科学である。

 色彩にも暖かい色,冷たい色があるが,冷暖という感覚が含まれてくると,単なる視覚とは異なったファッション,趣味といった高度な感覚領域にまたがってくる。色彩と匂いの関係も研究されている。

 触覚も引き金は物理的エネルギーであるが,その情報を脳に伝えるためには有機化合物であるアセチルコリンが神経細胞間に活躍する。このような二次的な面も考えれば,聴覚刺激の代表である音楽を聞いて精神が高揚したり,気持が和らぐときは匂いと同様体内で何らかの有機的変化が起きている可能性もある。

 五感の科学の間には有機化合物を通して密接な関係がある。一つひとつを切り離してしまうのではなく,五感と有機化学を学際的にみることにより,今までとは一寸異なった次元で有機化学をみることができないであろうか。

 「ファッションと有機化学」「芸術性と有機化学」などと考えてみたら,新しい学問,またはビジネスにつながるようなアイデアがでてくるかも知れない。五感の科学というと堅苦しいので,現代風にフィーリングサイエンスと呼んでひと味ちがった展開を期待している。


(平成4年10月1日受理)
ページ更新日
2012年4月23日