公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

テトロドトキシンの頃から
荒田 洋治


 有機化学における構造解析技術といえば,古い話になるが,国内外のグループがテトロドトキシンの構造決定を目指してしのぎを削っていた頃を思いだす。当時,UVとIRはすでに有機構造解析法として定着していた。これによって,有機化学者は共役二重結合,カルボニル基などの官能基の存在を知るすべを手にした。しかし,これらの方法は,分子内における官能基の位置に関してはなにも語らない。また,アルキル基に関しては全く無力であった。

 ちょうどその頃,NMRが有機化学者の間に急速に浸透しつつあった。“個々の原子を,別々に手にとってみる”というNMRの分解能の素晴らしさを有機化学者がいち早く感じとったのであった。このため,NMRに興味を持ち,実験をはじめていた“駆け出し”の筆者のところにも,天然有機化合物の構造決定についての相談がもちかけられた。テトロドトキシンもその一つであった。しかし,当時のNMRの分解能,検出感度,そして基礎的な測定技術をもってしては多くを望むことは所詮無理であった。テトロドトキシンの構造決定は,当時は多大の労力と熟練を要したⅩ線結晶解析によって決着をみた。

 その後,時代は急速に変貌をとげた。NMRと並んで質量分析,円二色性,Ⅹ線結晶解析などが続々とルーチンの方法として有機化学の世界に参入した。その背景には,時を同じくして爆発的に進歩をとげたエレクトロニクスの基礎技術,これの生みだしたコンピューターの革命的な発展がある。なかでも,もっとも大きく変貌をとげたのはNMRである。フーリエ変換法とその多次元化,超伝導磁石の導入によって,1Hのみならず,13C,15Nなどの新しい測定法が続々と登場し,有機化学の分野でNMRの地位は不動のものとなったのである。この進歩のなかで中心的な役割を果たしたErnst教授に,1991年のノーベル化学賞が贈られたことは誠に喜ばしい。過去10年の間に,NMRは有機化学の枠を越え,生物学,さらに医学へと発展していった。水を画像化するNMRイメージング(MRI)が医学の世界に完全に定着した。NMRの特徴をさらに生かし,物質情報を画像化する方法も将来は医学の分野で大きく貢献するであろう。

 Ⅹ線結晶解析は,線源,検出系,データ処理技術の飛躍的な進歩によって,有機化学に大きく貢献している。この方法は,数年前までは,タンパク質の構造を原子レベルで決定する唯一の方法であった。しかし,NMRの進歩に伴い,タンパク質のNMR構造解析がその地位を確立しつつある。NMRは,Ⅹ線結晶解析と異なり,水溶液中の“生きた”タンパク質の二次元構造を静的,さらに動的に原子レベルで捉えることを可能にした。現在のところ,NMRの対象となるタンパク質分子の大きさに限界があるが,その壁も徐々にくずされつつある。

 過去30年にわたる「構造解析法の進歩」を振り返ってみる時,進歩の原動力は,有機化学からの強いニーズが解析法の進歩をよび,さらに解析法の進歩が有機化学ヘフィードバックされるという歯車が見事に回転してきた点にあることがわかる。今後も,有機化学者が基礎的な物理化学的研究の動きに興味と関心を持ち続ける限り,進歩はとどまるところがないであろう。そして,10年後に本誌に再び特集されるかも知れない「構造解析法の進歩」はどのような内容のものであろうか。今から楽しみである。


(平成5年4月21日受理)
ページ更新日
2012年4月23日