公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

いくつかの思い出
鈴木 章


 大学院に入ってからの研究生活を通算すると,ちょうど40年になり,この3月で北海道大学工学部を定年退官することになった。定年を前にして,今までに経験した,いくつかの思い出を書かせていただくことにする。

 最近,ある雑誌の依頼で,「私のセレンディピティ体験」という題で原稿[化学,48,613(1993)]を書く機会があった。研究の偶然発見物語などというものは,そう簡単に生まれるものではない。私の長い研究経験のうちで,これに類するものとして,少量の不純物酸素が有機ホウ素化合物とα,β-不飽和ケトンやアルデヒドとの反応を促進し,対応する飽和ケトンあるいはアルデヒドを高収率で与える合成法を発見したことを紹介した。同誌に,名大理学部の野依良治教授と永戸伸幸昭和電工化学品研究所長の対談が記載されており,興味深く拝見したが,その中で野依教授が語られているように,実験を行っていると誰にでもセレンディピティに出会うチャンスはあると思う。しかし,その機会を生かすことができるかどうかは,ひとえに研究者の自然を直視する謙虚な心,小さな光をも見逃さない注意力と研究意欲が必要であり,さらに加えて,神が与え賜う幸運が大きく関係するのではなかろうか。

 1970年のことである。当時,私たちは有機ホウ素化合物から直接カルボン酸を合成することを目的として,研究を行っていた。その可能性のひとつとして,有機ホウ素化合物と青酸イオンから得られる錯体に,プロトン酸を作用させる反応を調べていたが,期待する成果は得られなかった。しかし,このシアノ錯体に塩化ベンゾイルのような親電子試薬を反応させると,良好な収率で対称ケトンが行られることを見いだした。この結果を発表しようと思いながら,1971年モスクワで開催された国際会議出席の準備などに追われ,論文を書き上げないままモスクワヘ出発したし。ところがこの会場で英国のA. ベルクー教授(当時マンチェスター大)と会い,偶然にも同教授の研究室で全く同じ研究を行い,その成果をChem. Commun.誌に発表し,近く公になることを知らされた。そのような事情で,我々が得た結果は,未発表に終わってしまった。この仕事は,私たちにとって期待通りにいかなかった反応例のひとつとして記憶に残るだけでなく,いろいろなことを教えてくれた。すなわち,研究を行う場合には,(1)文献調査を確実に,かつ,徹底的に行うことが必要であること,(2)他の研究者も同じようなことを考えていること,(3)得られた結果は,速やかに論文として発表すべきことなど・・・・・・。

 最近,私たちの研究室では,ハロボレーション反応を利用した有機合成について研究を続けている。これに関係した思い出をひとつ。この研究は,ある種のハロボラン誘導体が末端炭素-炭素三重結合に付加することの発見が基になっている。この反応の発見は1981年であったが,その成果の一部を外国ではじめて公にしたのは,1982年のことであった。その年の秋,アメリカ化学会の主催で「有機ホウ素化合物を用いる有機合成に関するシンポジウム」がミシガン州ミドラントで開催された。私も招待され渡米することになったのでその準備をしていると,H. C. ブラウン先生(ハイドロボレーション反応の発見者、1979年ノーベル化学賞受賞)から手紙がきて,このシンポジウムの前にパデュー大学に寄って講演をするようにとのお招きを受けた。この時にハロボレーションの話をしたわけである。私の講演の後,ブラウン先生がおっしゃるには,同研究室でも,ほとんど同じ時期に,この反応の有用性を予測して,アセチレン化合物に対するハロボレーション反応を検討したが,基質として内部アルキン類についてのみ反応を調べ,成功しなかったので研究を止めてしまったとのことであった。私たちはそのようなことは全く知らず,別個に反応を検討していたわけで,その結果,末端アルキン類は容易に付加反応を起こすことを発見したわけである。このように,幸運の女神はまことに気ままなもので,この場合には,私たちに大きな微笑を投げ掛けてくれたようである。

 とにかく,長い間同じことをやっていると,いろいろなことに遭遇するものである。


(平成5年10月27日受理)
ページ更新日
2012年4月23日