公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

大学院生への熱い期待
松田 治和


 大学院重点化構想が文部省で打ち出されて以来,各地の大学でその線に沿った改革案がしだいに具体化されつつある。大学への進学率が年々上昇し,大学教育が一般化した今日では,より高度な教育課程で次代を担う人材を養成し,大学における研究面でも充実した環境を整備しようとする思想は誠に結構なことである。それに伴って学部教育の「大綱化」を始め,境界領域の教育研究に対して,また時には社会人教育に向けてもフレキシブルに順応できるシステムを目指して,リストラヘの努力があちこちで聞かれる。もちろん内容によっては予算だけでなく時には用地の確保など大きな問題も伴うから,簡単には進まないかも知れないが,一応の定着を見た戦後の高等教育制度に関してかなりの前向きの改革となることを望みたい。

 理工系大学院における院生諸君は,講座などの組織における研究活動のうえで重要な存在である。特に有機合成化学のような実験系の研究室では,院生諸君の若い発想とたゆまぬ勤勉さに筆者はかねがね力強いエネルギーを感じ,時には畏敬の念すらもつことがあった。短期間の研究生活の間に,彼らの柔らかい手先は器用に訓練され,日進月歩の複雑な機器類もたちまち使いこなす弾力的感覚を羨ましく感じるくらいである。一方で立派に成長し始め,修士課程を終えようとする頃,企業側から期待の新星としてさっさと採用されてしまい,我々も前途を祝福しながらも淋しい思いを禁じ得ないことも多い。

 近年は大学院生に対する日本学術振興会の特別研究員制度などが年々充実されてきて,後期課程に進学する優秀な人材の経済的裏づけを高めていこうとする姿勢が推進されてきたことは,基礎研究態勢の整備という意味でも喜ばしいことである。学部教育では,多領域化している学問の広範囲な分野にわたって,基礎的素養だけでも広く教育したいと頑張っているため,それらの講義だけで手一杯になってしまう現状である。より高度な研究的訓練を受けさせるためには大学院の課程が是非とも望ましいため,工学研究科で学部定員の80%に達する院生を擁する所も出てきている。私学でも大学院の充実が切望されているし,事実筆者の所属する大学も喜ばしいことに院への進学者が年々増してきた。

 このような大学院生の溌刺たる息吹はもちろん日本だけではない。昨秋,筆者は中国との合同シンポジウムで7年ぶりに中国を訪問する機会があった。いま中国では新しい経済改革の波に乗り,広東省,上海,天津,大連など各地で経済技術開発区の整備がきわめて盛んであり,その世界に眼を向けた意欲的取り組み姿勢については日本のマスコミでもしばしば取り上げられている。筆者も前回の訪中時に比べて格段に活発になった経済発展の様子に眼を見張ったが,それにもまして強い印象を受けたのは,大学院生の研究発表の場におけるエネルギッシュな情熱と流暢な英語力であった。彼らは日本と変わらぬ高度な分析機器を駆使し,その世界に伍する自信にあふれた発表姿勢は,将来に備える底力を蓄えつつある若者のたくましさを感じさせるに充分な迫力があった。

 私事で恐縮ながら,筆者が幸いにもいまの有機典型金属化合物の化学と接触する機会を得たのも大学院生の時代であった。当時の恩師から指示された,ヨウ化ブチルとスズ箔から二ヨウ化ジブチルスズを直接合成する反応条件を詳しく検討し終えたとき,有機典型金属化合物の挙動にそれまで扱ったものにはなかった奥深さを感じ,その不思議な魅力にひかれた。当時の旧制大学院ではいまの大学院課程と違って,博士論文をまとめるのに特に期限はつけられていなかったので,講座の担当領域であった石油・石炭から得られる各種中間体の高度利用を目指して,考えられる反応をかたっばしから試みていた時代であるし,講座の研究の流れからすれば有機金属化学は異領域であったし,筆者にとってもそれまで全く未知の分野であった。しかし,思い切ってこの方向でさらに研究を続けることにし,それ以来どっぷりとこの領域に漬かることになった。いま顧みれば,院生時代にこのテーマに巡り会う機会を得て,しかもその後に優れた若い院生諸君の人材にも恵まれたお蔭であった。

 院生の時代こそ研究の萌芽を生み,新たな展開に備える成果が得られる貴重なチャンスであることだけは,昔も今も間違いはなさそうである。


(平成5年11月16日受理)
ページ更新日
2012年4月23日