公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

ペプチド合成:有機化学からタンパク質化学へ
榊原 俊平


 本年はEmil Fischerがグリシンとロイシンからなるオクタデカペプチドを合成してからちょうど87年目に当たる。彼の論文を読んでみると,当時分液ロートと再結晶のみで合成物を精製し,元素分析で成果を確かめるという通常の有機化学的な手法でペプチドを合成した様子がよくわかる。数年前どこかで聞いた話であるが,そのようにしてFischerが合成したペプチドは今も大切に保存されており,それを最新の高速液体クロマトグラフィー(HPLC)で分析したところ,現在の基準からみても決して見劣りのするものではなかったという。

 本格的な生理活性ペプチドが合成されたのは今からちょうど40年前du Vigneaudによるオキシトシンの合成が最初である。それには当時のありとあらゆる新技術が動員されていた。当時大学を出たばかりの筆者もFischer流のやり方でその合成にチャレンジしてみたが,グルクミニルアスパラギンを縮合させた辺りで何ができたのやらさっぱり解らなくなり,ついに諦めざるを得なくなったのを思い出す。今にして想えばdu Vigneaudらは当時の新兵器であった向流分配法やアミノ酸分析法を存分に活用しており,それらの技術の有無が合成の成否を分けていたのに間違いない。この例からも明らかなように,生理活性ペプチドの合成には効率の良い分離分析技術の手助けが絶対に必要なのである。

 オキシトシンが合成されてから1970年までの20年間は近代的なペプチド合成法の基礎が築かれた時代であった。その間に活躍した分析手段は主として薄層クロマトグラフィーとアミノ酸分析法であった。しかし本邦では向流分配法は遂に一般化するには至らなかった。したがって合成の際に生ずる副成物をいかにして除くかという課題がいつまでも残されていた。それを一挙に解決したのが1970年代後半に導入されたHPLCの技術である。おそらく,HPLC無しには今日のペプチド化学の発展はなかったと言っても過言ではない。HPLCは分析法として優れているばかりでなく,そのまま目的物を単離精製するためにも応用することができるからである。

 1962年Merrifieldが発表した固相法は当時多くの人々から“生成物の純度が悪いので使い物にならない”と言われていたが,HPLCを応用すれば容易に精製できることがわかったため,一躍ペプチド合成法の主役となった。ただし目的物と非常に似通ったものが副成するため,構成アミノ酸数が20個を超えると単一な物質として取り出すのは次第に難しくなる。一方、単一物質として取り出すことはできなくてもRibonucleaseのような酵素作用を持ったものを合成することができるという点が固相法の面白いところである。

 固相法はで合成できないようなペプチドは溶液中でのセグメント縮合法(液相法)で合成することになる。液相法は今まで高度の知識と長い経験を必要とするので難しいとされてきたが,最近筆者のところでどんな構造を持ったペプチドにも対応できる一般法の開発に成功した。それを用いればペプチドの合成限界を構成アミノ酸数150個前後まで拡大することができそうなので,目下その確認を急いでいるところである。ここまでくるとペプチド化学はもはやタンパク質化学そのものであって,その境界を区別することはできなくなる。

 最近米国を中心としてペプチドライブラリーと呼ぶ一群のペプチドを固相法で合成することが一種の流行となってきた。それは何千何万という違った構造を持ったペプチドを固相上で一挙に合成し,その中からホルモン受容体や抗体などと結合するものを取り出してリガンドとなるべきペプチドの構造を手早く決めようという手法である。この手法を用いれば可能性のありそうなペプチドを一つひとつ合成するような面倒なことをしなくても構造と活性の関係を手早く決めることができる。このような手法がはやり出すと,世の中は一斉に少しでも楽をして短期間に大きな成果をあげようという方向に走りだし,地道な研究者が育たなくなるのではないかという心配がふと頭をよぎる。現にアメリカでは固相法があまりにも一般化し過ぎたため,旧来の有機化学的な方法でペプチドを合成しようとする者がいなくなり,後継者の育成ができなくなったと聞いている。日本だけはそうならないようにと願うものであるが,それは果たして時代の流れに逆行することなのであろうか。


(平成6年1月31日受埋)
ページ更新日
2012年4月23日