公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

創薬研究とセレンディピティー
藤野 政彦


 研究におけるセレンディピティーの重要性を説いた2冊の翻訳本が昨年相次いで出版されている。この2冊は科学研究に携わる者にとってセレンディピティーがいかに重要な才能かを十分に説得させる内容である。

 創薬研究には二つの流れがある。一つは抗生物質ペニシリンやマイナー・トランキライザーのクロルジアゼポキシド,高血圧治療薬ヘルベッサーのように並外れた幸運に恵まれた結果(セレンディピティー)として成功したものであり,他の一つは潰瘍治療薬シメチジン,高血圧治療薬カプトプリル,前立腺ガン治療薬リュープリン,それに高脂血漿治療薬メバロチンのように理論的背景とある程度の幸運に恵まれて(擬セレンディピティー)完成した医薬品である。これらの医薬品はノーベル賞クラスの基礎研究が原点にあって,そこから派生したアイデアを追及して完成した医薬品である。現在一つの新しい医薬品を世に出すためには,候補化合物が見つかってから,200億円と13年を必要とすると言われている。この状態が今後も続くなら,投資回収率から考えて,製薬企業では研究所の存在が危ぶまれる事態になりかねない。国内製薬企業17社の平均研究開発成功率を調べてみると,候補化合物が医薬品として市場に登場する確率は20%程度である。世界的にもこの程度の成功率であろう。医療費抑制策として,日本では2年に一度の薬価切り下げで対応しようとしてきたため,製薬企業は生産体制や営業体制の効率化努力が強いられてきた。それはそれなりに企業の合理化に役立ったことは事実である。しかし,研究開発に関しては,あまり真剣に効率化の議論がされていないように思われる。米国では昨年多くの大手製薬企業で研究者も含めて数千人に及ぶレイオフが行われている。この事実は米国では研究開発の効率化が進んでいることを意味しているのではなかろうか。企業における研究開発の効率化で最も大切なことは,研究開発投資に対する回収率の向上であろう。最近10年程の日本製薬企業の平均投資回収率は150%程度である。現在の薬価切り下げ政策が続く限り,現状の研究効率では回収率がマイナスになることは問違いない。企業研究所が今後も存続するためには,前述の研究開発成功率20%を40%程度に改善するか,研究開発期間を現在の13年から7年程度にする必要がある。成功率20%の内容を調べてみると各社で多少の遠いがあるにしても,失敗80%のうち,前臨床試験段階までは安全性(毒性)が懸念されたために中止した例が多く,臨床試験に入ってからでは予期した薬理作用が認められないために中止した例が多い。今のところ安全性に関しては丁寧な動物実験で判断するしか方法はない。しかし薬理作用に関しては研究のスタートで,ヒト起源の材料が使えるようになってきた。

 遺伝子工学や細胞工学の進歩によって,ヒトの遺伝子組換えによる酵素や受容体発現細胞がスクリーニングに使えるようになってきたし,ヒトの培養細胞も使えるようになってきたことを考えると,臨床段階に入ってから効き目が悪くて中止に至るような極端に無駄な研究は段々減少すると考えられる。また,合成化学の面からはコンピュータ支援ドラッグデザイン(CADD)が盛んに俎上に上るようになり,学術講演会等でも「生理活性物質のデザインと合成」と題する演題が多くなってきている。事実,酵素阻害剤の研究等では既にCADDがかなりの威力を発揮している。将来間違いなくCADDを利用することで改良型医薬品の研究は容易になるものと思われるし,革新的な医薬品のデザインにも貢献する可能性があろう。製薬企業の合成化学研究者もその辺の進歩状況を常に見据えて,自分の研究に利用することを心掛ける必要があろう。CADDを専門とする研究者も合成化学や薬理学の知識を身につけ,合成化学研究者や生物研究者と密な協力関係を保つ必要があろう。今後医薬品の研究開発成功率を40%程度に上昇させるためには,合成化学研究者の見識と努力が何と言っても大切である。企業における研究では,効率という点から理詰めの研究こそが重要な訳で,その意味ではセレンディピティーよりはロバーツ教授の言う擬セレンディピティーがより重要だと考えて良さそうである。無論,セレンディピティーに恵まれた幸運な発見を見逃さずに人類の知的財産を形成していく大学での画期的な研究が連続的に続かなければ企業の研究は破産することになるだろう。


(平成6年5月10日受理)
ページ更新日
2012年4月23日