公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

“夢”と“ロジック”と“アート”とを
日野 亨


 天然物の全合成の歴史はW. H. Perkinが1856年にキニーネの合成を目指したのに始まるということはよく知られている。当時まだハイティーンでドイツから来たA. W. Hofmann教授の助手をしていた彼は流行病であるマラリアの薬として知られていたキニーネが南米のキナの木からしか採れないのでそれを化学合成しようとした。キニーネの分子式をみて,アリルトルイジンを酸化すればキニーネができるはずと信じて実験をして,たどり着いたのがアニリン染料の発見であり有機合成化学工業の始まりであった。有機化合物の3次元構造という概念もないときに,複雑な,しかし有用な天然物の合成を企画するのは冒険というか若者の夢であったに違いない。その夢は初めから見ると思わぬ方向に発展したセレンディピティーの代表例になっている。

 その後有機化学が科学としての体系を少しずつ整えるようになり,天然物の合成が次々と達成されるようになった。R. Robinson は天然物の生合成の仮説を“imaginary hydrolysis”より考え出して合成討画のなかにそれを取り入れた。天才的な発想による天然物の合成が始まり,R. B. Woodwardとともに“Art in Organic Synthesis”の時代を築き戦後の若者を魅了した。そのうえ,複雑な天然物の合成研究がWoodward-Hoffmann則のような有機化学の体系を確立する原動力になることを示した。このように誰でもできるわけでない“アート”に憧れ,それを目指した研究も少なくなかったはずである。

 有機合成化学はサイエンスなのだからもう少し論理的に考えて誰にでも学ぶことができ,しかも使える概念をということでE. J. Coreyはシンソンの考えから発して“The Logic of Chemical Synthesis”に到達した。そしてコンピュータによる合成計画の作成も可能になりつつある。

 昔からすべての合成化学者は“retrosynthesis”を何らかの形で行い合成のプランをたてていた。それをシステマチックに説き明かした意義は大きく多くの人を天然物の全合成にひきよせた。天然物の合成研究は有機化学専攻の大学院学生のよいテーマであるといわれた。文献の調査と今までの勉学の実力を投入して作り上げた計画を実験をすることによって実証し,計画通りに進行しないときにはそこで発想を変えて困難を乗り切るという研究になじむよい訓練になるためである。

 天然物の全合成の発展の歴史を主観的に要約するとこのようになり,“ドリーム”から“アート”に,さらに“ロジック”へと進んできている。現在はロジックの時代である。次に来るものは何であろうか。21世紀になるとまた必ず新しい概念が生まれ有機合成の方向が示されるに違いない。合成化学の体系は既にほぼ完成しているのだからこれからはターゲットに何を選ぶか,何のためにこの合成をするのかという問題だけが残されているという声も聞かれるがそんなことではない。

 戦後50年の多くの年月を曲がりなりに有機合成の研究に携わってきた筆者にとって近年の30年の進歩は予想をはるかに超えたものであった。具体的にどのようなことが次に起こるかを予測することはいままでのことを予想できなかった凡人にできるわけがない。しかし必ず何かの発展があると思うのは,まだ有機合成化学が完成した学問ではなく,「望みのものだけを,望みの量だけ作れる体系」にはまだ程遠いからである。独創的な発想が必要なことは言うまでもないが,独創的と言うことの一面には先人の業績を学び,他人が想いつかないところにアナロジー(類似性)を見付け出すということがあることを指摘したい。

 私見によれば有機合成化学の研究には“夢”と“ロジック”と“アート”の3要素が必要であり,夢のなかには目標を定めるときの理由づけ,原動力が含まれている。冒頭に述べたPerkinの夢はキニーネの合成の点では1944年に達成されているが,本来の夢であったマラリアに対する医薬品の開発は完成しておらず,現在でもトピックスである。夢の中心課題である目的の設定には哲学的思考が必要に思われる。より基本的には現在大学の組織名から消えつつある“教養”が重要であることは言うまでもない。LSDに頼るような夢であってはならない。


(平成7年7月10日受理)
ページ更新日
2012年4月20日