公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

美しい有機化学を!
白濱 晴久


 最近カフェインを抽出する学生実験で,この科目を担当する人が昇華によって得た美しい針状結晶を展示した。自分で実験をしなくなってから,こんなに美しい結晶を絶えて久しく見たことがなく,ひどく感激して眺め入ってしまった。学生時代酸クロリドとエチレンのFriedel-Crafts反応でできたケトンの構造を確かめようと,同定のために種々のケトンのジニトロフェニルヒドラゾンを作り再結晶した時,冷気の入る窓際に並べたフラスコの中にそれぞれ現れた赤い美しい結晶の姿は今も鮮明に思い出すことができる。NMRもIRもなく元素分析と融点を頼りに構造を調べていた時代だったから結晶に対する想い入れも大きかったが,現在はあえて結晶を作って見入ることも少なくなっていよう。結晶を見る時有機化学を仕事とする者にとっては,結晶を得るまでの苦労や,仕事のストーリーが見えてくるので,美しさを感じる思いもひとしおとなるが,化学を知らない人が見ても美しい結晶は充分に美しく鑑賞にたえる対象である。美しい空,美しい森,美しい昆虫など自然は美しく常にわれわれの心に心地よく働きかける。化学にもそんな無心で臨んでも美しいと感ずる美しさと,感ずるための知識があってこそ美しいと思える美しさとがある。

 ある知人は有機化学を選択する学生の資質として,勉強ができることより,結晶を見て美しいと思うことの方が重要だと云っている。これも一面の真理と思う。少なくとも自分の手掛けた物質に対する執着と愛情の大きさが実験者の資質を決めていることは確かである。

 Hendrickson,Cram,Hammondの教科書(1970年版)の表紙を開くと,この本の第2版までに合成された化合物と,まだ合成されていない化合物という説明だけがあって30個程の化合物の構造が並んでいる。どれもが対称性のよいシンプルな形をしており,美しい分子である。著者らは美しいと思った分子の構造で見開きを飾り,学生に有機化学のロマンを伝えたかったに違いない。

 私が学生の頃有機化学を習った杉野目晴貞先生(元北大学長)が口頭試問の際“Was ist die Organische Chemie?”と問われ,学生が答えに窮していると,“Die Kunst!”と一喝されたと先輩から開いたことがある。かつてWoodwardは“有機合成は興奮と冒険と挑戦を含んだ芸術である”と云っているし,Art in Organic Synthesisという本には名品といえる合成が100個以上も紹介されている。辞典によれば芸術とは独特の表現様式によって美を創作表現する活動,またはその作品であるという。有機化学も芸術といっても良さそうである。有機化学が自然をより良く理解し,新しい物質を創造して人間の文明に広がりと探みを加えるものである以上,その中に美しさを感じさせるものがあればある程、より洗練された有機化学になると思う。

 RobinsonのMannich反応によるトロピノンの合成は誰もが習った美しい合成の古典であろう。私はBartonが1956年にそれまで沢山の研究がされていたにも拘わらず,まだ構造に疑問がもたれでいたウスニン酸を2-アセチル-6-メチルフロログルシノールのフェリシアン化カリ酸化によって二量化し,一遍に合成してしまった論文を見た時,隠された真理を見抜く若者の目の確かさに心から驚き本当に感激した。また,その後1971年Chapmanが3,4-メナレンジオキシ-6-プロペニルフェノールをパラジウムで二量化すると同時に分子内でDiels-Alder反応を起こし,カルパノンを一段階で合成してしまったのを見た時も分子の対称性を見抜いたシンプルで美しい合成に心を奪われ,敬服の念を禁じ得なかった。無駄のないシンプルな合成は美しく,この仕事をした人達の幸福感まで伝わってくるような気がする。

 一体美しさとは何であろう。目や耳,心にうっとりと心地よい感じを訴えてくる事象を云うのであろうか。すがすがしい感動を呼び起こし,気持の高ぶりをもたらすものこそ美であろう。カールルイスの走る姿を見れば誰しもが美しさに打たれる。そこには速く走るために無駄を排し,合理的に造り上げられた肉体の躍動がある。走るためのフォームを一瞬のうちに計算し,筋肉と血と呼吸で表現された肉体の調和がある。古代ギリシャの美しい肉体の彫像は年代を経ても変わらず人を魅了し続けている。われわれも歴史を経てなお美しさを失わないケミストリーを残したいものである。


(平成6年12月12日受理)
ページ更新日
2012年4月20日