公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

「特異反応場の有機化学」特集号に寄せて“常識からはみ出す”
戸田 芙三夫


 一説によると,化学反応の多くが溶液中で行われるのはその昔のアリストテレスの提言「No Corpora nisi Fluida」によると言われる。物質の本質的変化が液状のメディアでしか観察される機会がなかった紀元前の昔,水のごとき液体のないところで今流に言うところの化学変化が起こらないと唱えたのはまさに卓見であった。アリストテレスは,ブドウ汁がワインに、牛乳がチーズに変化するが,乾ブドウやチーズが保存食であることを観察したことであろう。この考え方がヨーロッパで生まれ育った近代化学に重要な影響を与えたため,化学反応は溶液中で行われるようになったと言われる。このような由来など忘れさられて,“化学反応は溶液中で行う”ことはごく普通のこと,つまり“常識”になっている。溶液中の化学の典型として体系化されてきた有機化学はそれなりの素晴らしい発展をしてきた。さまぎまな合成反応や合成方法が開発され,反応機構もかなり詳細な段階までも解明された。近年はまた,金属を活用する新しい合成反応特に不斉合成法に目覚ましい進歩があり,有機合成法の基本は開発されつくされたとの見方もあるほどである。学問や技術の世界に終点はなく,発展や開発の可能性は無限と言えるけれども,従来の溶液中の有機化学では踏み越えられない限界もある。同じ概念,類似の手法では,限界を突きくずして新しい学問や技術体系を築いていくことは困難であり,第一研究者を奮い立たせない。研究者を活性化するのは,常識の世界からはみ出し,突出して新しい世界を築き育てていく過程においてである。

 今日,このような研究者が増えつつあり,このような研究者によって開拓され,築かれ,育てられつつある新しい有機化学の研究手法や研究領域が増えつつある。今回,「特異反応場の有機化学」として,このような研究者たちの活躍の場が特集され,紹介されることは時期を得た価値の高い企画といえる。まず,溶液中の有機化学反応の対極にあるのは溶媒なしの有機化学反応,あるいは,固体有機化学反応と呼べるものである。この範疇に入るものとしてまず,固体有機光反応がある。結晶中では分子が規則的にかつ濃密に配列しているので,光照射によって起こる光反応は規則的に能率良く起こることが期待される。このアイデアによる光反応の成功例も数多く報告されるようになってきた。また,結晶中での分子配列が光反応に都合良いように配列しない場合は,配列制御の工夫をすれば良い。この一つの方法に粘土などの鉱物や人工ホスト化合物を活用するものがある。その一つゼオライトを用いる化学も一つの新分野を確立しつつある。有機系人工ホスト化合物には種々の工夫がなされており,光反応をさまざまに制御できるようになりつつある。特に,キラルホストを用いるキラル合成制御も将来一つの新しい分野を築くものと期待される。

 ある種の対称分子は結晶中で不斉に配列する。この結晶への光照射で不斉が凍結されて光学活性体が得られる。不斉源を使用しない不斉合成,すなわち,絶対不斉合成であり,不斉合成法としての価値だけでなく,地球上での不斉発生の謎解きとも関連するおもしろい問題である。まだ,10数例しか報告されていないが,将来注目される研究分野になるであろう。固体反応は光反応に限らず,通常の熱反応にも適用できる。反応によっては溶液中よりも能率良い反応を選択的に行わせることもできる。

 固体に準ずる反応場として,ミセル,膜あるいは液晶を反応場として活用することも可能であり,この観点からの研究も重要である。高圧下の有機化学反応も,分子を圧縮,接近させて反応させるという点で固体状態に準ずる反応と考えられる。かなり多くの有機化学者がこの分野への興味を示すようになりつつある。その他,有機化学反応への磁場の効果も興味あるテーマであり,化学者が予想外の成果を期待している分野でもある。高温の化学反応は石油化学プロセス等に用いられているが,極低温の有機化学反応は未知の分野である。酵素反応のような生体反応は水の存在下,人工の有機化学反応は有機溶媒中で行うのが常識であるが,この常識を逆手にとった,有機溶媒中の酵素反応,水中の有機化学反応も常識からはみ出した発想に基づく新しい分野である。


(平成7年1月9日受理)
ページ更新日
2012年4月20日