公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

最近思うこと
小川 誠一郎


 小さい頃のなにか造ってみたい夢が理科系を志望させたようですが数学は苦手,それでもなんとかなるだろうと僭越にも化学を専攻することになりました。有機合成化学の道へ足を踏み入れたのが成り行きならば,自分流の研究生活にいそしみながら,いつのまにか後輩を指導する立場になってしまったのも偶然の巡り合わせと言うほかありません。この度若い会員の皆さんに一言呈する機会が与えられることになり,反省を込めてなにかお役に立てることがあればと考えておりましたが,原稿にかかりはじめた矢先,想像を絶する阪神大震災のニュースが心身を震撼させることになりました。

 被災地のただ中にじっと踏み留まっていらっしゃる十数万の被災者の皆さんへ励ましの言葉を送り,亡くなられた多数の市民の皆様方のご冥福を心からお祈り申し上げます。一瞬の後に悲惨な状況に置かれた皆様の助け合う姿が,さらにまた全国から寄せられる温かい政援の手が,自然に湧き起こる感動を呼び,災禍に敢然と立ち向かう同胞の真摯な不屈の意志をそこに見たように思いました。被災者はこれから復興に向けて長い道のりを一歩一歩ご苦労されることになります。

 震災の被災地はまた,終戦時の東京の荒涼とした焼け野原を目のあたりに思い出させました。あれから50年が経ち日本がかつてない繁栄の頂点を極めたこの平和の時代に,同じような悲惨な体験をふたたび一部の方々が強いられることになりました。天災と言って片付けるにはあまりにも不条理の世界です。こうした環境が根底で我々の精神・文化を形成し,先進国の中にあって特異ともいえる価値感や民族感情を育む基盤をなしていることを忘れがちです。突然襲いかかる天災は衝撃的に我々の共通意識を呼び覚ますかのようであります。そこから引き出せるものは,復活へ向けての活力の結集であり,新生への生みの苦しみ・試練であるように思われます。

 技術立国を標傍する我が国では,最近の世界情勢の変動と共に若者の理科離れが心配されています。それに対し初等・中等教育における理科教育を充実させるごく常識的な対症療法が検討されていますが,この機に,理科とくに有機化学へ若者の興味を引き寄せる策はないものか考えてみました。世の中は,自然に目を向けようとする子供達の好奇の芽を摘み取る材料で満ちており,興味の触手はしばしばブラックボックスでブロックされています。こうした現実では勢い“ものを作る”ことより“ものと情報を使いこなす”能力をより良しとする風潮が主流をなしています。手を使ってものを作ることの好きな子供達に評価が与えられるような環境を,初等教育の場にぜひとも復活させてほしいものです。手先を器用に訓練することは,頭と身体のバランス感覚を高めます。こんなことを言い出したのも,有様合成化学は目に見えない分子を使いもの作りに取り組む手仕事として,一方の極に位置しているように思えるからです。急速に発展したコンピュータ化学で分子設計の実現が予感される時代となりました。が,“やってみなければわからないことがある”化学の面白さを根底で支えているものは,依然として,ねばり強い巧みな手仕事と職人芸の冴えに誇りを感じる研究者自身ではないのでしょうか。当初ほかの分野を志し後年転向した著名な有機化学者が知られています。ニュートンが錬金術まがいの化学実験に物理研究以上の時間を割いていたというのも驚きですが,音楽や建築など芸術畑からの転向組がこの有機化学の発展にきわれてまれな貢献をなした事実は,有機化学の特殊性を暗示させます。自然科学には数理解析の能力が必須とされ,子供の時に理科に向くものが選別されてきました。自然を愛し観察好きなのに,早期にシャットアウトされる若者が相当いることでしょう。私共にできることは,有機化学を専攻している学生さん達に,面白さを実感させ掌中に掴んだ小宇宙に十分進んでもらうことかもしれません。「有機化学は深遠で興味尽きない学問です」,師の言葉が思い出されます。今時難しく感じるのは,せっかく真理を学問する機会にお互いに恵まれながら,面白さを受信するアンテナの波長が合わず,喜怒哀楽に対する鋭敏さに少々ずれを生じていることです。問題はどのように働きかけ将来へ続く興味と使命感を引き出し,次世紀を担う若い人達に夢を託せるかということでしょうか。


(平成7年3月6日受理)
ページ更新日
2012年4月20日