公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

自然の摂理と有機合成化学
平岡 哲夫


  Physics has quantum leaped to quark. Biochemistry has gone to gene. Where docs chemistry go?
  Cold nuclear fusion was an illusion. Does chemistry and cell biology have to be of each others intrusion? Is material science a goal for the chemical niche?

 上の英文は,昨年ある外国人入学者向けの写真集の寄せ書きに私が書いたものである。「化学は何処へ行くのか?」という言葉は最近の私の実感であるが,この「化学」を「有機合成化学」に置き換えた場合にはその方向性がかなり明白であると思われる。

 近年の有機合成化学の発展は目覚しいものがあるが,特に1970年代以降のこの分野の日本の世界への貢献は高く評価されるであろう。特に,リファインされた有機金属試薬の開発とそれらを利用した高立体的選択反応は,学問的ばかりでなく,化学産業にもインパクトを与えつつあるのが現状である。これらの研究は,今後もさらに連続的に発展させていかなければならないし,これに対する若い化学者への期待は大なるもがある。しかしながら,私にはこれらのhigh1y sophisticated artificial synthesisの研究に研究者の数が偏りすぎているように思えてならない。すなわち,我々は自然界(細胞内)で見られる有機化合物生成反応にもっと目を向けなければならないのではないだろうか。現在,ポリペプチド,DNAなどはかなり大きい分子量のものまで,自動合成機やフラスコ中で合成可能となっている。これらの合成は,有機化学者による高度な保護基とか縮合試薬の開発の結果,可能となったものである。しかし天然ではこれらの生体高分子は,当り前の話として,人工的保護基などなしに非有機溶媒中(水性環境下),分,秒の単位で合成されているわけである。そこで,我々はもう少し生体触媒とかそれをmimicした分子量の比較的小さい人工酵素の研究に時間を費やす必要があるのではなかろうか。

 我々の先人は,自然界の鳥とか魚の姿を見て,飛行機とか,潜水鑑を発明するに至った。さらに,これらを高度に発展させ,ロケットとか水中翼船等を実用化せしめた。しかしながら,これらは莫大なエネルギー消費の点からだけ見ても,自然の摂理からは程遠いものになりつつあると考えざるをえない。金属を利用した有機合成化学も単純なHg+を利用したものからPd,Rh,Zr等の高度にリファインされたものに,有機化学者の叡智により発達してきた。しかし,一方で,これらの有機金属化学は,一部のものは,厳密なN2とかアルゴン気流下中でなくては進行しなくなったし,溶媒も水分を限りなく0%に近づけなくてはならなくなった。また,空気中ではある種の有機金属試薬は発火するということで,産業界では使いづらい一点が生じつつある。さらに,非天然型合成高分子や難分解性化合物が使用され過ぎるようになったため,これらのことを総合的に考慮して,外国では最近Environmentally friendly chemicalsという言葉も使われるようになりつつある。それ故,新聞紙上では,「自然に帰れ」とか「自然に学べ」という言葉が以前にも増して多くなりつつある。しかし,私はこの自然重視には行き過ぎがあってはならないと思う。すなわち,これは今までのラインの有機合成化学の研究を否定するものではない。

 以上の私の考えを別の言い方で表現すれば,遺伝子工学で蛋白を合成することは立派な有機合成化学である。DNAは単なる物質と見なせば,4種類の塩基が糖とリン酸を介して結合した,ただの縮れたヒモである。しかし,これに必要なアミノ酸をコードするコドンを付け加え,さらに,プロモーターとか,開始(終止)コドン等を適当な位置に配置すれば,優れた蛋白の生産手段となるわけである。これは産業界に身を置く私にとっては正当な有機合成化学となるが,このような考えを持つ人々はあまりにも少ない。

 人類は叡智をもって科学の世界において自然を征服したなどとは考えてはいけないのである。我々の現在制御している化学反応は細胞内のそれに比較すれば幼稚な段階なのである。それ故,有機合成化学者の研究分野のさらなる拡大を望むと共に,最近の進歩した科学の目でもう一度自然界の摂理を見直し,これを少しでも取り入れた合成化学研究者の増加を切望する次第である。


(平成7年2月9日受理)
ページ更新日
2012年4月20日