公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

有機合成化学の私的展望
桑嶋 功


 有機合成化学の今後を展望するにあたって,現在の有機合成化学を十分に成熟した学問分野と見るか,あるいは未だ発展途上にある領域と考えるかによって,今後の展開に関する見解が分かれて来よう。前者の立場に立てば,学問領域自身の進展よりも周辺領域への拡大が重要となろうし,また後者の立場では,今後さらに有機合成化学自身の学問的深化と拡大が重要課題となろう。戦後,日本の産業界は欧米に追い付くことを目標にして,一意専心努力してきたことはよく指摘されるところであるが,程度の差こそあれ各学問領域と言えども例外ではない。

 有機合成化学の分野においても,戦後,多くの先達,同輩および後輩諸氏が,博士研究員などとして,欧米の研究グループに参加して第一線での研究活動に従事し,帰国後,これらの経験を活かして,各自活発な研究活動を展開することにより,現在の盛況をもたらすに至っている。その結果,多くの優れた研究成果を創出し,例えば,古くから有機化学者の夢の一つであった“不斉合成”の研究分野などのように本邦の研究者が中心的存在として研究の進展に寄与した例が多い。

 これらの成果を見ると,産業界と同様に,合成化学の分野も欧米に比肩するところまできているのは事実であろう。しかし,悪い意味での類似性も最近目に付くようである。産業界の状況と同様に,学問領域においても到達すべき目標がある場合には比較的対処しやすい。しかし,わが国の有機合成化学の現状を見ると,ある程度まで目標が達成され,欧米に比肩するレベルに達したところで,今後,独自の研究目標の設定が迫られているにもかかわらず,この慣れない立場に戸惑っているような感じがしてならない。マラソンで先頭のランナーに追い付いた途端に,自分のペース配分が分からなくなったようなものである。今後,本邦の合成化学の真の実力は,いかにして斬新で魅力的な研究テーマを創出し続けることができるかどうかによって関われている。

 有機合成化学の学問的意義に関しては,その芸術性なども含めて種々な見解もあろうが,最大公約数に言えば,必要な物質を必要な量だけ合成するための技術的なサポートをすることにあろう。もちろん,時代とともに必要な物質の質も問われ,高度に複雑な分子もその対象となろう。

 また,昔の問題と関連して,必要な物質をいかにシンプル(効率的)に合成できるかということも重要なテーマである。このような観点からすれば,精巧に見える現在の有機合成化学も,物質合成の技術としては未だ甚だ不十分であることには諸兄の賛同を得られよう。

 わが国の合成化学は,これまでは,新規合成反応の創生を目指した研究を主体として進展してきた。その結果、有用な分子変換法の開発は本邦の合成化学者の最も得意とする領域になってきている。しかし,分子変換法はあくまでも物質合成の手段である。したがって,個人的見解を言わせていただけば,今後,本邦のこれまでの分子変換法の開発を主体とする研究から合成標的指向へと目標を切り替えるべき時期に来ているのではないだろうか。いかに優れた建築材料を開発しても,それらの特徴を使いこなして堅牢かつ壮麗な建築物が建てられない限りは虚しさが残る。

 また,テーマ消費型の研究ではなく,テーマ創出型の研究へと方針を切り替える必安があろうし,このためにも,適切な合成標的の設定が重要になろう。合成標的自身も有機合成化学の進展に大きな影響を及ぼす場合が多い。これまでにも,天然有機化合物が持つ複雑な物質構造は,研究者の想像力を刺激し,合成に必要な分子変換法の開発を目指す試みは,多くの創造的研究への端緒となってきた。例えば,1980年代のマクロリドを標的にした合成化学は,斬新な大環状ラクトン構築法に加えて,アルドール反応の立体化学制御,不斉アルドール反応,ひいては,現在の不斉合成への進展をもたらした。

 今後も,引き続いて,興味ある標的物質の探索とその合成を目指した研究は,同時に周辺に多くの研究課題を創出することになろう。これらの課題は多種多様であり,したがって,各課題の解決は各論的になるであろうが,これら各論の発掘とその総論化が学問の進展には不可欠であり,この作業を通じて,必要な物質を必要な量合成する技術が生まれてこよう。


(平成7年3年15日受理)
ページ更新日
2012年4月20日