公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

理科教育のいま・これから
井上 祥平


 教育ということについて,何の意見も無い,という人はおそらくいないだろう。何人かが集まってこの話をはじめれば,議論百出、尽きるところがないのではないだろうか。自分が過去に受けた教育と,現在子女が受けている教育とが,どうしても比較の対象になる。本会の会員にとっても,日常教育を仕事としている大学の教員にとってはもちろん,企業所属の研究者・技術者にとっても,例えば新入社員の資質の変化を通じて,いろいろな意見・感想があるに違いない。

 どんな職業にせよ,若者がそれを選ぶとき,やりがいのある,経過も良いものをまず考えるのは当然であろう。社会・生活にとって重要だから,という理由の説得力は,強いとはいえない。一方,いわゆる偏差値に象徴される大学の入試制度が,真の志望以上に進路,そして初等中等教育,特に高校数育に強い影響を及ぼしているといわれる。初等中等教育ではまた,学習指導要領が極めて強い影響力を持っている。

 大学所属の会員は御存じのことであるが,大学の入試の問題は高校の教科書に書いてある内容の範囲から出題され,その教科書は文部省の定めた学習指導要領に従い,検定を経て作られる。これは要領とはいいながらその拘束力は強く,その当否をめぐって議論のある教科があることは御承知の向きもあろう。

 その学習指導要領の改訂が数年前からはじまり,現在高校の段階まできていて,これに応じて大学の入試科目も平成9年度から変更される。新しい学習指導要領の掲げるところは多様化,個性化,国際化等であるが,実際には小学校1,2年生での理科が廃止されて生活科が新設され,中学校では精選の名のもとに理科の教科書の記述内容が減少した。

 さらに高校では多様な選択制が導入された。選択の幅が6科目から13科目へと拡大されたのである。その結果,例えば化学を履習しない生徒が出てくることも予想される。高校ではまた,「課題研究」が導入された。こうしたことは仮に理念としてはよいとしても,現場での対応に困難が大きい,というのが多くの高校の教員の意見である。当然,多様化に対応する教員数の増加や受験教室・設備の充実がなければならない。現在,教員は生徒の生活指導等教科以外の多くの校務を抱え,自主的研究等の自己啓発の機会を持つことが困難な状況にある。就学人口の減少の確実な今こそ,1学級当たりの生徒数を減らして教員の行き届いた指導ができるような態勢をとるべきである。しかし現実はこれに全く逆行し,教員の採用が極力抑えられるという憂うべき状況にある。

 初等中等教育の教員の養成についても問題がある。教員養成大学は文科系として位置づけられることもあって,大学別の入試試験科目で理科必修を課す大学が小学校教員の場合で50%を割り,中学校理科では1/3強でしかない。こうして理科を不得手とする教員が増加しており,小学校では実験を全く履習していない人が教員になっている場合さえある。せめて理科教員の採用試験には実験の実技試験を課すようにすべきであろう。

 もちろん,この間題について大学が責任を免れ得るものではない。偏差値思考を生んだ全国共通試験のことはいうまでもない。就学人口の減少に対応して受験者数を確保するために,入試科目を理科の内1科目に限定したり,あるいは全く課さないという「入試の軽量化」が進んでいる。新学習指導要領による多様化によって,さらに「軽量科目」が登場する可能性もある。しかしこれらは大学の教育課程,ひいては卒業生の資質にも影響してくるかもしれない。少科目入試を実施した大学がこれらを反省し,受験料目数を復活させた例もあるとの報告もある。

 最近,物理,化学,生物各系の諸学会から「理科教育の危機を訴える」主旨の声明・提言が相次いで出された。少し前、大学の研究条件の劣悪さが強く叫ばれ,社会一般の理解とある程度の実質的な成果を得た。同様に,初等中等教育の教育条件が劣悪であること,それが人材の育成に大きい障害となることを強く認識し,関係者が一致して諸方面に働きかける必要がある。


(平成7年6月6日受理)
ページ更新日
2012年4月20日