公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

雑感
伊藤 嘉彦


 大学を卒業して今年で35年目になる。企業に就職した同級生達の中には,既に定年退職した方もいる。大学に入った頃は,ようやく第二次大戦後の混乱期もおさまり,日本の経済復興が着実に軌道に乗りはじめ,石油化学工業が各地に興っていた時期である。各大学で理科系学科の増設,拡充が盛んで,私と同年代の多くの若者が理科系に殺到した。

 当時,大学の化学系学科の有機合成化学室と言えば,未だ伝統的な染料や油脂の合成化学が戦前から引き続き継承されて旧態のままであった。しかしながら,同じ頃,ヨーロッパでは,既に,この後の世界を一変させた革新的人発見,チーグラー・ナックのポリエチレン重合触媒が見いだされていた。当時の日本は,まだ,この技術革新を受け入れる準備が整っていなかった。まさに,現代化学の夜明け前に大学で化学を勉強したことになる。その後,大学の教育も研究も欧米から強い影響を受けて,なにもかも急速に変化していったが,私共が学部学生の間は古いいままであった。今では有機合成化学の研究室ならどこにでもあり,不可欠のNMR,IR,GC,MASSなど機器分析装置は,まだ周辺に見当たらなかった。有機化合物の同定は沸点,融点や元素分析を頼りにした。30数年前までは有機合成はこんなものであった。研究のスピードはゆったりしたものであったが,考え,工夫しながら十分高度な研究をする人達もいた。

 1960年代の半ば頃,大学では米国の影響を受けた有機物理化学とチーグラー・ナッタ触媒による高分子重合化学の研究活動が特に盛況で有機合成化学は取り残されて影が薄かった。しかし,その後,有機金属化学が有機化学と無機化学の学際領域として台頭してきた。これに進路を見いだした有機合成化学は優秀で,勤勉な若手研究者の懸命な努力があって急速に発展した。

 今日,日本の有機合成化学のレベルは世界からも十分高く評価されていると思う。有機合成化学に関連する国際会議の特別講演者,招待講演者に日本人研究者が名を連ねることが至極当たり前になっている。30年前には予想だにできなかった。主要な国際的な学会誌への論文発表でも日本進出が目立つ。これも日本の有機合成化学の世界での評価と素直に喜びたいところだけれど,商業学術誌ならともかく,欧米先進国の化学会誌に日本人の論文がドット押し寄せれば,その国にとって余り愉快ではないだろう。度がすぎると貿易摩擦ならぬ論文摩擦だってないとは言えない。一日も早く我々自前の,世界的にも評価される国際学術誌の確立が必要である。日本人の研究論文の海外流出がなくなった時,日本の有機合成化学は本当に一流になっているに違いない。

 1960年代から30年余り経過して日本の有機合成化学は世界からも注目されるレベルに達したことは確かであるが,だからと言って,これまでの研究体制,研究姿勢を将来とも繰り返し取り続けてよいものか。私共はこれまで研究成果に拘わって研究に取り組み,それなりの成功をおさめてきた。競って論文発表することで,世界のレベルに早く到達できたことに間違いはない。しかし,この調子で世界から一歩抜け出し,さらにリードを拡げてゆけるかと問われれば首肯するのにためらってしまう。

 今,各大学で大学院重点化が進み,研究体制や組織の改革が行われる中で,素質のある若手研究者に成果を恐れず独創的な研究に立ち向わせたらどうだろう。遊び心があって科学的探究心の旺盛な研究者が日本人には結構いるように思う。幸いなことに近年科学研究費に関して日本の大学研究者には追風が吹いており,欧米の研究者から羨まれる状況下にある。しかし,こんな喜ばしい話はいつまでも続くとは思えない。今のうちに,将来,日本人研究者が世界の有機合成化学の真のリーダーになりえるための研究制度や環境の整備が望まれる。


(平成8年10月14日受理)
ページ更新日
2012年4月20日