公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

自然からの教訓
岩村 秀


 先般ホノルルで開催された環太平洋化学国際会議95において,コロンビア大学の中西香爾教授が全体会議の特別講演を行った。「自然からの教訓」と題するもので,同教授の天然物化学の研究の最近のハイライトを取り上げながら,斬新な研究テーマの挑戦的選択,手法の開発,既存の学問領域にこだわらないアプローチ,多分野の専門家との研究協力など,哲学と研究姿勢について述べられた。この演題と講演内容は,会場の天然物化学者の共感を呼んだことは言うまでもないが,専門分野を異にする我々にも示唆深いものがあった。

 一つには,生命体の仕組・機能の本質に対する探求を突き詰めていくと,分子のユニットを超えて分子集合組織体の研究を行わなければならないと言うことである。視覚の機能解明はレチナールの研究に留まっていた古典的化学では限界があり,半径約5ナノメートルの球状色素蛋白ロドプシンをまともに取り上げなければならない。またそれが可能な段階にきている。化学はこの半世紀,分子論を基礎として進展してきた。分子性物質の巨視的な性質は,分子の電子構造,立体構造で左右されるという考えであり,複雑な分子構造をいとも簡単に決めることができるようになった。物質変換の基礎である化学反応も予見できるようになり,紙の上に書かれた相当複雑な化学構造式をもつ化合物まで合成することができるようになった。ところが,マクロとミクロの中間のメゾスコピックな領域で,分子がナノメートル数十ナノメートルサイズの分子・集合組織体をつくってはじめて発現される性質があるという理解が最近になって深まってきた。生体系では,蛋白質,核酸が高次構造を形成したサイズであり,生体膜などがこの領域にはいる。この領域の構造,反応の解析,構築を任意に行うことができるかというと,答えは否定的で,研究は甚だ立ち遅れている。21世紀の化学はこの領域にあると言えよう。

 さて次に,天然物化学と言うと,生命体を構成する物質,生命体の生産する物質を研究対象とし,ひいては重要な生物機能に対する理解を深める学問であるという理解が定着しているが,自然界には生命現象と無関係であるが重要な機能を持っている物質が多数あり,これらを対象とする研究も「自然に学び」ながら進められており,従来の天然物化学と似た考え方で進められていることに留意したい。機能性分子膜,伝導性物質,液晶,磁石等がこれである。一例として有機分子で磁石を作る研究をあげよう。天然の磁鉄鉱が鉄を引き付けコンパスとして使えることは,紀元前1500年頃中国とヒッタイト文明において既に知られていた。磁石は鉄,コバルト,ニッケル等の金属,合金,金属酸化物等の4s,3d電子のスピンが整列して巨視的性質となったものである。10年ほど前から,フリーラジカルの不対電子の2pスピンを集積・整列させ有機化合物の磁石を作ろうという研究が始まっている。フント則により分子内で低い交換相互作用が生じスピンが平行に揃うような分子設計を行い,有機合成により1次元鎖あるいは枝分かれ鎖状のオリゴマーを作ることにより,これらが記録的に大きな磁気モーメントを持つ常磁性体であることが明らかになった。しかしながら,1次元鎖のスピン整列はエントロピー的に不利であり,有限温度で磁気相転移を起こして磁石となることはできないため,2次元,3次元の高次の構造をとる必要が明らかとなってきた。考えてみると,有機合成,高分子合成は,1次元鎖あるいは環状構造の炭素-炭素結合の形成については目覚ましい進歩を遂げているが,2次元,3次元の広がりをもった構造の構築を苦手としている。ポリペプチドや核酸を手本とすると,2次構造,3次構造の形成は共有結合よりも弱い分子間力をもって達成されており,磁石に必要な高次構造も配位結合,水素結合,電荷移動力、疎水結合等に頼るのが有効であろうと示唆される。このような発想からフリーラジカル分子の自己集積組織化を行うと,最も効果的に磁気相転移温度の高い磁石ができるようになってきている。光通信用ファイバーで高度な用途のある透明な磁石,高記録密度の光磁気記録素子といった最先端材料のシーズがこうしてフリーラジカルを素材にして誕生しようとしている。自然から学ぶことは多い。


(平成8年1月22日受理)
ページ更新日
2012年4月20日