公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

素材産業の課題
小柳 俊一


 どしゃぶりが続いた日本の化学工業界の景況もようやく薄日がさしてきたと思われる昨今ですが,一化学企業の研究開発に永く従事してきた経験から,明日の21世紀の化学および化学工業を担う若い人達に多少なりともアドバイスができればと筆をとりました。

 グローバル化した経済・社会の中で日本の化学工業の浮沈を決するのはひとえに国際競争力を具備しているかどうかにかかっております。日本の産業の空洞化が現に進行しておりますが,資産・エネルギーの削約や為替レートで換算すると世界一高い人件費コストなどを考えますと日本の素材産業自体かなり厳しい状況にあることは否めません。日本の化学企業もプラント輸出や海外生産拠点の建設など海外展開の手を着々と打ってきており,最近はますます拍車がかかっておるようです。

 当社の塩ビ事業は1960年にポルトガルに進出したのを皮切りに,今では国内の何倍もの生産を海外で行っております。その経験で申しますと,海外進出をその企業の世界戦略の中でどう位置づけ,どう展開するかが重要と考えております。みんなが海外に出ていくから,世の中の流れだからといって出ていくというのは甚だ賛成しかねます。日本よりもアメリカの方が圧倒的に原料が安いからアメリカでやるとか,原料問題よりも人件費の問題からASEANで行った方が有利だとか,国際競争力の徹底した比較検討と生産・流通・市場を含めた世界戦略の上で海外移転を考えることだと思っております。

 日本も海外移転を世界戦略として進めると同時にそのあとをどうすればいいかと言うと,新しい技術を日本で創成していく,それに替わるべき新しい製品を,付加価値の高い製品を開発していくということが重要です。経験から申せば,本当に高いレベルの技術は日本で自分でやらなければできないということを感じています。海外に技術をもっていって,それを高めることはできないと思っています。自ら苦労して開発した技術だけが身につき次の発展を可能にいたします。国際競争力はコスト競争力だけでなく,一流の品質とそれを造り出す高い生産性をも意味します。

 日本の素材産業が生きる道は従来の発想を変えて,独創性のある技術を創り出すことだと信じています。それには化学なら化学だけでなく,周辺技術,関連技術の進歩をいち早く導入したり,挑戦することが必要です。私も今では当たり前ですが,塩ビの大型重合器のコンピュータ制御に取り組み,その成果が塩ビの生産性の向上につながり,国際競争力の一助となっております。

 そして,もっと重要なことはお客様の声に謙虚に耳を傾けることです。でも,顧客の要望の中から真に重要なことを見分けることは至難の技なのです。これはノウハウ以外の何物でもありません。厳しい技術競争の中で鍛えられた日本の素材産業はもっと自信を持ってしかるべきと思っております。いい研究をしたからといって,それが事業の成功に結びつくかというと必ずしも結びつかないということを企業の研究者は肝に命じて考えるべきです。顧客や製造部門の方などの厳しい眼で研究を見直すということが研究を進める上で重要です。

 技術革新の原点は素材にあると確信しております。素材が進歩して初めて技術革新が実ってまいります。その観点から日本の素材産業の将来にいささかの不安ももっておりません。「21世紀は新化学の時代」とも言われておりますが,その期待に応えていくためには化学の範疇に止まらず,いろいろな分野の方々との交流,協力の下に開発研究を進めていく姿勢が必要となることでしょう。若い人々の参加を期待しております。

 日本の技術レベルが高いということは,その技術のバックグラウンドがしっかりしているからでもあり,それは基礎教育がしっかりしていることでもあります。大学の研究教育が非常にレベルが高いこと,そして,その前段階として高校の教育レベルが高いことなど基礎がしっかりしていないと技術レベルが高くなりません。ただ,偏見かもしれませんが,アジアの方々と接しますと,彼らの知的なハングリー精神に驚かされます。やはりハングリーでないと技術もレベルアップしていかないのではと,この点に危惧を感じています。


(平成8年1月31日受理)
ページ更新日
2012年4月20日