公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

所感
山本 經二


 昨年成立した科学技術基本法に基づいて,わが国の研究開発力の強化を計る政策の骨子が4月29日付日本経済新聞に報じられている。それによると,国公立大学,研究所などがベンチャー企業の育成に手を貸し,教授や研究公務員がベンチャー企業を興せるようにすることを規制緩和の目玉にしている。昨今,流動的な経済情勢を受けて産業界のリストラがいよいよ本格化し,従業員の処遇に能力主義を強調する企業が増えている。大学研究機関もその枠外に留まることは許されず,学部教育の大綱化に続いて,大学院を重点化する動きのなかで,外部評価を受けたりして,近い将来の研究体制を刷新,再構築するべく模索している。そこへ現在の体制で大学教員の兼業も可能となると,新たな錯綜した問題が生じるように私には思われる。

 そもそも西欧における近代科学は,個性の意識が確立される時代に対応して発展し,科学の思惟性と技術の経験性とはむしろ対立関係にあったと言われている。しかし,産業革命がその関係を一変させて,科学と技術の同時代化,一体化が進み,ことにわが国では明治維新当初からそれが苦しかったのは周知の通りである。この極度の科学技術の一体化は,極言すれば用を目指さない,好奇心にのみ動機づけられた探究のための研究環境を狭めてきたと思う。近年わが国でも独創的な研究の重要性が様々に叫ばれているが,その本来の意味は,実にこの環境の劣化を警告するものでなければなるまいと思っている。

 その意味において,いま基礎科学振興のためにいくつかの環境整備が緊急に必要であろう。教育による人材育成と,研究の活性化を現行の体制で続けることに,多くの大学人が限界を感じているのが現実である。わが国の特殊性であるとして,大学院修士課程修了をもって充分とし,on the job trainingを重視する向きが強いが,創造性を尊ぶ基礎研究を充実させるため,とくに,化学研究を支える教育の高度化には,博上課程に進学する学生数の増強と,彼らへの経済的処遇を改善することが絶対に必要であることを私は常々指摘してきた(たとえば化学と工業47,519(1995))。また,研究の活性化については、専門職としてのpostdoctoral(博上研究員)の制度を今や本格的に導入する時である。リスクを伴う先進的な研究には,短期間に成果を求めないでもよいこの制度のあることが必須であろう。文部省科学研究費が年々増額され,かつ各種の研究助成の窓口が急増している現在では,教育の側面を伴った大学院生が主体の研究体制の下で,多くの人が成果主義への心理的負担を感じているのは紛れもない事実であるから,この制度を導入すれば極めて有効に働くであろう。また,この制度が自然科学における共同研究という面からみても大変刺激的であることは,諸外国へ出て実際にこれを経験した者にはよく理解できるところであろう。すなわち,研究の流儀の違う先任研究者と若手でも専門をもつ研究員との短期であっても真剣な共同作業を通じて,互いに得るところが大きいからである。

 科学技術基本計画に盛られている,創造性の豊かな若手研究者にはその所属機関にある期間流動性を持たせること,さらに研究生活の早い時期での自立性を促がすことは,正しくpostdoctoral制度の眼目である。これらを実現することが,在来の講座で規定される共同研究とは違った可能性をもたらす意味で,基礎科学振興のために緊急の課題となるであろう。さらには,postdoctoralを終えて活力に溢れた若手研究者が大学などの研究機関に限らず,企業のR&Dに受け入れられる体制ができることも不可欠の要件となる。そのような体制が整ったうえでは,冒頭に触れたベンチャー起業なども自然に受け止められる素地ができると思われる。以上は個人的な見解にすぎないが,そのような可能性が早く実現することを念ずるものである。

 最後に付記すると,総合論文,総説,ならびにreview indexによって,最も良質な二次情報誌として大きな役割を果たしている本誌を購読して22年目になる。この間,編集の労をとられた歴代の委員の方々に改めて敬意を表したい。停年退官して,新たな勤務先の研究室で書棚に収めた雑誌のバックナンバーは,思い切って本誌だけである。


(平成8年5月1日受理)
ページ更新日
2012年4月20日