公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

「ほしいものだけ作る化学」から「ほしいものを製造できる化学」へ
印藤 元一


 21世紀の足音が間近に迫っており,新世紀における日本の産業構造のあり方について論議されてきた。我が国産業の空洞化が現に進行しており,資源,エネルギーの制約や世界一高い人件費などに加え,地球規模で将来を考えると,情報通信を中心とした情報関連型産業の振興を誰もが考えるようである。最近発表された95年度鉱工業生産指数では前年比3.4%と2年連続の上昇となっており,産業界でもようやく薄日がさしてきたようにも見えるが,業種別に見るとパソコン,半導体,集積回路といった情報関連品目の伸びが著しいことが示されている。我が国産業の全体の生産の伸びをけん引する主役が,ここ数年の間に情報型へと交代したことが観察され、来る21世紀の産業構造を示唆しているようである。

 しかし1億2000万の人が生活してゆくためには食品,エネルギー,基礎的物質などに関係する基礎産業の裏付け無しには成り立たず,新しい技術を日本で創りだし,付加価僻の高い製品を開発しなければならないことは言をまたない。技術革新と声を大にしていわれているが,技術革新の原点は素材にあることは明らかで,素材が進歩してこそすべての産業における技術革新が実現するわけである。化学の関係者の間で「21世紀は新化学の時代」といわれているが,その期待に応えるためには物質交換から物質合成に至る広い分野での新しい研究開発が必須となっている。

 最近における有機化学の分野での進歩変革は著しい。我々の若い世代には想像もできなかったことであるが,これまで単離困難とされた化合物を簡単に単離する方法が開発され,その化合物は機器分析の進歩により,巨大分子の立体構造や絶対配置も含め比較的容易に解明されるようになっている。機器分析の発達していなかった時代の新規化合物の構造決定までの大変な苦労を考えると夢のようである。表題の「ほしいものだけ作る化学」は尊敬する野崎一教授の本の題名を借用したものであるが,ものを作る合成手法についても,蓄積された知識を把握して縦横に駆使することに加え,飛躍した概念と思考力によって新しい反応剤の開発を含む画期的な合成手法が開拓され,「すきなものだけ」を選択的に作ることが容易になってきている。

 我が国における有機合成化学の研究は国際的にも高い評価を受け,関連工業の発展も含めますます重要性が増してきている。数年以上前は学生の間における化学の人気が低下し,何とか学生を化学に呼び戻す手段はないかと真剣に考えられ種々の試みが実行されてきた。喜ばしいことに当協会主催のシンポジウムなどへの参加者がかつてない多人数にのぼっていると聞いており,永続することを祈っている次第である。

 中堅化学工業で研究開発と工場生産に長年携わってきた者にとっては,先端的研究と工場生産の間のギャップが非常に大きいことが痛感されてきた。昨今の合成化学の進歩の1つの要因として,取り扱う量が極めて少なくて良いことが考えられる。ごく少量の場合では昇温,冷却,反応時間,反応速度,安全性,公害など,工場生産での大きな問題を考慮に入れず自由に反応を設計できるからである。そのため研究成果としては非常に立派であっても,工業的応用としてはヒントになっても直ちに用いられるものは極めて少なかったと考えられる。

 昔は工業化成功の要因は「はひふへほ」にあると聞かされた。すなわちハルツ,発泡,廃棄物,排ガス,品質,腐蝕,分離,不純物,閉塞,保安,保全で,有機合成化学の本筋とは無関係のようであるが,工場ではこの問題で非常に悩まされてきた。最近ではこれに加えて環境にやさしいクリーンな技術,コンピュータによる無人化の容易な技術,有毒な廃棄物を出さず人体に有害な溶剤を用いない技術などが要求され,化蕃法をはじめ法規制をクリアーできる技術でなければならなくなってきている。

 工業生産に伴う上記の問題は,企業サイドで解決すべき仕事と割り切れば良いかもしれないが,問題点がその反応設計の根本にかかわっていれば,優れた研究が高根の花となる危険性がある。卓越した研究が社会に役立つものであるために,生産における諸問題を頭の片隅において研究していただきたいと願っております。


(平成8年7月5日受理)
ページ更新日
2012年4月20日