公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

3つのS
長倉 三郎


 科学研究において,画期的な発明,発見など優れた創造性を発揮するためには,“Serendipity”,“Scientific Condition”,“Social Condition”の3つのSが重要であると考えている。

 Serendipityという言葉は,我が国ではこれまで馴染みが薄かったが,欧米では創造性発揮の要件として重視されてきた。この言葉が,“The Three Princes of Serendip”という物語を基にして,18世紀の英国の作家Horace Walpoleによって作られたものであることはよく知られている。物語の内容から幸運に恵まれて予期しなかった発見をする能力をSerendipityと呼んでいる。

 自らの研究生活を振り返って大魚を逃した経験をもつ研究者は多いと思うが,そうした機会を逃さずに捉える鋭い直感と,それを生かしきる英知と気力と粘りが大きな発見や創造の源泉であることをこの言葉は意味しているように思われる。戦後の我が国の教育は優れた個性的な才能を平均化する凡化力が強く,Serendipityの発現を妨げる方向に働いていたのではないかと思う。

 2番目のScientific Conditionについては,文部省の科学研究費補助金が念願の1,000億円を超え,また未来開拓学術研究推進事業をはじめ国の出資金による研究支援の道が開かれるなど著しく改善されつつある。あまりにも急速に事が進み唐突の感もあるが,これまで研究費に苦しんできた研究者にとっては干天の慈雨であろう。

 言うまでもなく,研究費は研究推進の1つの要素に過ぎず,それに過大な期待をかける現在の我が国の傾向は健全とは言えない面もあるように思われる。ノーベル賞を受賞した研究室からその後も受賞者の出る確率が高いと言われている。それは,科学研究の本質に関する深い理解と緊張感に溢れた創造性を育む土壌がそこに整えられ,優れた人材が育つことが主な原因ではないかと考えられる。こうした点からみて,科学研究の歴史が浅く,流動性と開放性に欠け,相互刺激の少ない我が国の現状は問題点が多い。研究費の改善と共に研究推進ならびに研究者養成の体制改革を広い視野に立って計画的に進めることが重要ではなかろうか。

 Social Conditionは社会の価値観や伝統,教育のあり方などを通して科学研究と深く関わっている。現代医学の導入に功績のあったベルツ博士が有名な日記の中で指摘しているように,我が国社会は現代科学の導入に当たってその根や幹を育てるよりも花や果実を利用することに熱心であった。この傾向は,物事の本質を深く掘り下げて考えることをせず,感覚的に捉えがちな我が国の文化的伝統と深く関わっており,戦後の経済至上主義のもとで最近ますます強くなっているように思われる。

 和を重んずる反面追随型で集団的に行動すること,安定指向の反面閉鎖的で流動性や国際性に欠けることも我が国社会の特色であり,伝統である。我が国の研究が精緻であるが,スケールの大きい独創性に欠ける場合が多いこと,我が国の研究者が一般に視野が狭く蛸壷にこもりがちで,異分野間の総合や交配を通して新しい分野の開拓に挑戦する気概に欠ける傾向のあることも,上に挙げた我が国社会の伝統と深く関わっているであろう。

 これから21世紀にかけて科学研究における創造活動はますます重要になると考えられる。研究者自身が気持を新たにしてSocial Conditionの中の創造性を阻む要因の改善に積極的に挑戦することを期待する。この問題は初等中等教育を含めて教育のあり方とも深く関わっているが,その点についてはここでは触れない。

 最後に1つの事実を指摘しておきたい。我が国の国内で行われた研究でノーベル賞を受けた湯川,朝永,福井,江崎4博士の研究が発表されたのは終戦前後12年に集中している。言い換えれば,生活や経済的な面からみれば,最悪のScientific ConditionとSocial Conditionにあった終戦前後に,優れた英知を極限まで引き出す条件があったものと考えられる。それがなんであったか結論を出すことはここでは控えたいと思うが,当時は旧制高校で培われた幅広い教養主義や主知主義の残照が緊迫した状勢下の精神的高揚や緊張感と結びついた時代であった。最近話題になっている春山氏の著書“脳内革命”でとりあげられている脳内モルヒネによるのかどうか専門外のことで判断できないが,そこにSerendipityを発現させるなにかがあったことは認めなければならないであろう。


(平成8年12月9日受理)
ページ更新日
2012年4月20日