公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

反常識の化学
冨士 薫


 科学は2本の柱が相補的にからみ合うことによって進歩してきた。先人達が営々として築き上げてきた研究をふまえて,広範な知識の収集と解析に基づいた緻密な論理的基盤の下に進められるもの,これが1つの大きな柱であることは間違いない。我々がまず研究にとりかかるのはここからである。この研究から得られる結果は予測あるいは期待されたものであるから,いわば常識的にうなずけるものとなる。有機反応でいえば,新しいけれども現在の常識内に納まる反応ということになる。これは大きな意味の改良研究ということになるであろうか。従って,研究の成果を見積るfactorとしては高収率,適用範囲の広さ,操作性,高エナンチオ選択性といった実用性が重要となる。

 しかし,我々は計画した新しい反応が予期した通りに進行することはむしろまれであることをよく知っている。反応が思い通りに進行しなかった時こそチャンスであるとよく言われるが,すべてがそうであるとは限らない。大部分は単に失敗のみである。しかし中にはすばらしい花を咲かせる種が拾い上げてくれるのを待っていることもある。これをうまく拾い上げれば今までの常識では考えられないような成果につながる場合もある。反常識的反応の誕生となる。これが第二の柱である。反常識的反応はいわばseedsであり,従って実用性はこの段階では余り大きな問題ではない。今までの常識を覆すことが最も重要な点である。当然,次のステップとしてはこのような反常識的事実を一般化,すなわち常識化することが必須となろう。いずれにせよこの2本の柱は学問の進歩には欠かせないことは言を侯たない。

 ところで,ここ十数年来我が国の化学の軸足が一方に偏りすぎているきらいがあるように思えるのは筆者のみであろうか。この研究は将来こういうすばらしい応用性がありますよ,と言わねばならないような雰囲気が充満している。つまり常識の化学は目を見はるばかりの進歩を成し遂げつつあるがseedsである反常識の化学についてはどうであろうか。現在の日本のレベルからいっていささか物足りない思いがする。反常識の化学の誕生には先に述べた第二の柱。つまりserendipityが極めて重要なことはいうまでもないが,もう1つ大切なものがあるような気がしている。それは「余裕」である,あるいは「学問的遊びの心」とでも称すべきであろうか。予期せぬ結果が得られた時はそれを切り捨て脇目もふらず目的に向って邁進。これも良しではあるが,少し淋しいではないか。ある雑誌に三角先生(阪大名誉教授)が「研究に遊びの心を」と題する巻頭言を載せられたことがある。もう4年も前のことになるが大きな共感を持ったことを記憶している。「遊びの心」ばかりになると唯我独尊,我田引水となり厳にいましめねばなるまい。しかし,時には知的興味のみで現在のところ何も役に立ちませんよという研究にうつつを抜かしたり,全く関係のない分野の勉強をしてみたりといった「余裕」が反常識の化学を生み出す糧となるに違いない。「余裕」は研究の底力につながるのである。

 1987年のノーベル化学賞はクラウンエーテルに関する研究でPedersen,Cram,Lehnに与えられた。この受賞は色々な意味で考えさせられるところが多かったが,中でもPedersenの受賞は当然とはいえ意味深いものである。ごく微量の副生成物の中に宝物を見つけたことはserendipityの極みであるが,もう1つ見落としてはならないことがある。筆者には詳しい事情を知るよしもないが,一研究員に当初の目的と異なる研究の続行を認めた会社の上層部の「余裕」である。1967年アメリカ化学会誌に発表された論文は20頁にものぼる大論文である。謝辞にはかなり多人数があがっているものの彼の単名の論文であることから,社内の研究者の大きな協力を得るまでには到っていなかったのであろう。それにしても当時のアメリカと日本の底力の差を如実に示すものである。現在の日本の研究レベル,研究者数などから考えて日本人のノーベル賞受賞者が少ないのは恐らくこの底力の違いによるものと思われる。

 研究の底力は「余裕」であり時には「遊びの心」である。反常識の化学の育成には無論本人の心の持ち方が最も重要であるが,それを許容する環境を醸し出すことも重要である。これは我々の世代の勤めではなかろうか。


(平成9年9月16日受理)
ページ更新日
2012年4月19日