公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

タンパク質と有機化学
小倉 協三


 昨今の生化学関連のジャーナルを開くと,必ず酵素タンパク質の二次元構造の美しいステレオビュウが目にとまる。その立体構造を覗き込んでいると,あたかも自分が基質分子となって活性中心へ引き寄せられるような気分になる。長年,酵素の研究に明け暮れてきた筆者はこの近頃の急速な進展に感動を覚えずにはいられない。

 19世紀後半に,エンゲルスは『生命はタンパク質の存在の仕方だ』と書いて,生命の神秘性を物質の存在状態のせいにした。「生命の担い手はタンパク質であり,様々なタンパク質分子の挙動が生命現象の源である」と把えれば,今日も立派に通用する各言である。

 生命は海の中で誕生した。爾来,生物は細胞という容器の中で水を溶媒として,酵素タンパク質の触媒によって,様々な物質を合成したり分解したりして,生命を維持し,その機能をDNAを介して子孫に伝えながら,偶然と必然の成果として進化してきた。生物のつくる様々な代謝物は構造研究や合成研究の対象として,多くの有機化学者の興味を惹いたが,不安定で分離,精製が困難な巨大分子であるタンパク質は敬遠されがちであった。構造の新規性を求めようとする有機化学者にとっては,所詮,20種類のアミノ酸から成るポリマーは魅力がなかったのかもしれない。しかし,タンパク質の機能-ひいては生命の神秘-はまさにこのアミノ酸の配列順序によって支配されているのである。エンゲルス流に言えば,『生命はアミノ酸の並び方』ということになる。この並び方すなわちタンパク質の一次構造を化学的に決める方法を編み出したサンガー博士は,次にDNAの塩基配列の見事な決定法をも考案して,二回のノーベル化学賞を受けたことはよく知られている。この卓越した業績は今日の分子生物学の驚くべき進展に大きく貢献したことば言うまでもない。

 必要な化合物を選択的に効率よくつくることを目指す有機合成化学の立場からは,触媒としての酵素タンパク質が特に興味深い。現に酵素の機能に迫ろうとする合成化学者の挑戦は目覚ましく,立体特異的触媒反応の開発で素晴らしい成果を挙げている。タンパク質には学ぶべき多くの機能が秘められている。ともすると忘れがちだが,どんな合成反応でも‘‘水の中ではたらく”というのも酵素の魅力ある機能であろう。水ほど安全で安価な溶媒はない。酵素を有機溶媒中で使おうとする研究があるが,逆の発想で,有機合成反応を水の中でという研究は余り聞かない。酵素機構の解明の延長線上には,水の中ではたらく分子触媒の合理的設計があり,それに基づく水溶液有機合成化学の展開を期待したい。タンパク質ならではの絶妙な機能は疎水性基間相互作用(疎水結合)に負うことが多いが,この作用は水の小だからこそ生ずる作用である。完全な構造式で表現できないような化合物は掴みどころがなく,鍵と鍵穴といった大ざっばな概念では満足しない有機化学者は,酵素の機能を活用することはあっても,機能発現の機構追求には限度を感じ,リラクタントにならざるを得なかった。しかし,今や時代は変わった。分子生物学的技術の驚くべき進展によって,タンパク質の一次構造は対応するDNA塩基配列に基づいて,迅速に決まり,かつ大量に生産することが可能となった。その結果,タンパク質の結晶化が促進され,Ⅹ線結晶構造解析により,重要なタンパク質の二次元構造が次々と明らかになってきた。すなわち,タンパク質は隅々まで精密な構造が書ける親しみやすい化合物となった。さらにタンパク質分子中の特定アミノ酸の置換や削除など加工が自在になった。いよいよ有機化学者の出番である。

 生物の機能があまりにも合目的的であるが故に,それを担うタンパク質は長い間の自然淘汰で磨き上げられた完成品のごとく思われがちである。しかし酵素を触媒分子として見た場合,決してそうではない。機能の改良や改変に計り知れない可能怖が秘められている。平均的大きさのタンパク質が200個のアミノ酸から成るとして,20200種類の並び方がある。突然変異によって,それらの小から最高品が選択されるには38億年は余りにも短い。人類は恐ろしい技術を手にしたものである。何億年後かに出現するかもしれない生物がつくるタンパク質を先取りして,いま,多量に手にすることができるのだ。21世紀の科学は生命を支えるタンパク質分子から多くを学ぶことになるであろう。


(平成9年1月6日受理)
ページ更新日
2012年4月19日