公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

化学の恩返し
芝 哲夫


 世紀末が近づいてくると,人間は未来に向ってある不安を抱く習性があるらしい。産業革命が起こり,イギリスで製鉄業が盛んになった時,鉄鉱石の還元に,はじめもっぱら木炭が使われた。そのためにロビンフットが活躍した時代の森はイギリス全土から消失するという現代まで尾を引く地上の大きい変化をもたらし,17世紀の終りには暖房用の薪炭にも事欠くという深刻な事態に陥った。木炭に代わる石炭の使用も,新たに煤煙による甚大な被害をもたらすといった危機的状況となっていったが,これを救ったのは,18世紀のはじめにダービー父子が石炭の高温乾留で得たコークスの発見であった。

 19世紀末には,肥料の窒素源としてもっぱら依存されていたチリ硝石が枯渇する徴が現れてきて,人類の将来に飢餓が訪れるという世紀末的憂慮が世界を覆った時があった。この危機を乗り越えようとして取り組んだ当時の化学者の最大の課題は空中窒素の固定であった。1913年にドイツのハーバーとボッシュによって窒素と水素の触媒反応によってアンモニアが生成する条件を見いだすことに成功し,このアンモニアが酸素と反応して硝酸が合成されるオストワルドの反応と組み合わされて,窒素肥料生産の問題の解決を見ることができたことはよく知られている。しかし,このような過去の世紀末的不安を解消するのに化学が大きい力を発揮したことは余り一般には認識されていない。

 さて20世紀の終りに近づいてきた現在,また我々人類は地球環境の悪化に伴う生物存続に対する憂慮というこれまでの世紀末とは比べものにならない大きい不安に襲われてきている。それは全人類的であるのみならず,全生物的なかなり深刻な事態に突き進みつつあると思わざるを得ない。

 オゾンホールの増大による生物遺伝子への影響,二酸化炭素増大による地球温暖化に伴う諸問題,石油,木材,金属をはじめとする地球資源の枯渇,原子力から核融合,太陽エネルギー利用への推移に伴うエネルギー源確保の見通し,老齢化社会の到来,難病の克服などに関係するライフサイエンスの対応,どれひとつとってみても,近い将来の人類の運命を握っている重要課題であることを否定することはできない。これらは人類の営みの趨勢によってもたらされた必然の結果であるところに運命的な根の深さを思わせる。そのいずれの問題も一朝一夕にして片付くものではないとしても,すべてのデータは指数関数的な増加の線を辿っているから,もはや猶予は許されない。

 この深刻な問題を少しでも解決して,我々の子孫により良い状況の来るべき世紀を準備するのは20世紀に生きた者の責務であると思えてくる。少し考えればわかることであるが,そのいずれの問題に対処するにも化学を抜きにしては何ひとつ進まないであろう。

 フロンに代わる代替品の開発,二酸化炭素固定の経済的新方法の発見,石油資源の有効利用とリサイクル法の開発,金属資源の温存法の研究,無公害新エネルギー源の早急な開発,人間性に根ざした病気の予防と治療に関する新しい考え方の検討,どれをとってみても化学が主役となって解決に当たらねばならない問題ばかりである。

 このような憂慶すべき状況をもたらした根源は,便利さ,快適さを求めて,科学を手段に使って,万物の霊長としての人間の知恵で自然界を隷属させ得ると考えた人間の思い上りにあることは今や明らかになってきたといえる。その罪ほろぼしに,真の人類愛と生物愛に根ざした新しい化学研究が始まる可能性はないものかと近頃しきりに思うのである。

 後生の人々に20世紀末の諸問題を見事に解決してくれたのは化学のためであったと感謝されるような歴史を残したい。現在は,化学にとってそのような局面に満ち満ちているとも思えてくる。そのことによって,今の世の中に拡がっている化学に対する無関心、不信感などは一度にふっ飛んで,化学がいかに人類にとって人切な学問・技術であるかを知ってもらえる絶好の機会である。人類に対する化学の恩返しの時が来ていると思うのである。


(平成9年1月9日受理)
ページ更新日
2012年4月19日