公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

有機合成化学と合成有機化学
中井 武


 本協会の名称には「有機合成化学」が,その英文名には「Synthetic Organic Chemistry(合成有機化学)」が使われている。この2つの言葉のイメージが違うのは筆者だけだろうか。前者にはやや技術指向の“工学部”的イメージが,後者には科学指向の“理学部”的イメージがある。学術的有機合成と工業的有機合成の不離が問題視されている昨今,両者を包括・調和しようとする本協会の役割はその重要性がますます高まっていると思う。一昨年度,筆者は本誌の編集委員長を務めさせていただいたが,この間,“本誌の内容がやや学術的に偏よりすぎているのでは”という意見を何度か耳にした。この両者をいかにバランスさせるるかは本協会にとって常に考慮すべき重要なことであると思う。

 ところで,近年,残念なことには,「サイエンスとしての化学はすでに“mature science”となり,その存在価値は失われつつある」という意見をしばしば目にする。Maddox博士(Nature誌 editor,1988)のような方から“Truly,the science of chemistry has lost its identity”(D.Seebach,“Organic Synthesis:Where Now?”,Angew. Chem. Int. Ed., 1990,29,1320)という言葉を聞くとは! しかし,近年の目ざましい有機合成の発展を前にして,我々もここでじっくりと自問しなければならないのではないか。論文の洪水の中で,“バベルの塔”を築いていはいないかと。そして,この‘‘偏見”に対して反論し,有機合成の存在意義を社会に実証しなければならない。Corey教授がいみじくもいわれているように,有機合成の真髄はまさに“Something Valuable from Almost Nothing”(Chemist,1989,3)にあるのだから。

 多くの論者が認めているように,1970年以降の有機合成化学分野における日本の貢献は国際的にも高く評価されている。Seebach教授によれば,“Japan illustrates how quickly a new nation can come onto the playing field and completely change the course of the game”(前掲総説)。しかし,我が国の有機合成研究の将来は得意な“the course of the game”の延長上にあるだけでいいのだろうか。有機合成化学の“tool for something”としての役割は,確かに今後も重要であり,その価値は普遍的であろうが,この得意技を一層洗練・強化する一方,新しい価値ある“something”を創出していかなければならないのではないか。“つくりっぱなしではダメだ,もっとつくったものにも研究を拡げよ”とか“すでにtoo much sophisticatedだ,もっとpracticalな視点をもて”などの声を聞く。こうした状況の中で,“つくる”までを主舞台とするサイエンスとしての合成有機化学のパラダイムシフトを可能にする新しい“価値観”(publicが受け入れ評価する)には何があるのであろうか。

 このテーマこそ研究者個々の創造性の問題であろうが,これに関連して,筆者は最近面白い経験をした。昨秋,大学院講義の期末試験に「今後10年間に解決すべき有機化学の重要課題をあげ,その意義を述べよ」という問題を出題したところ,案の定,学生(修士1年)は今流行の“不斉触媒”,“不斉合成”,“天然物合成”などに関連した課題をあげたが,意外にも,その「意義」の記述は大部分が「環境問題」に結び付けたものであった。これは「科学的意義」を期待していた筆者には驚きであった。学生にとっては,立体選択性も不斉触媒も環境問題を解決する手段というわけである。論述の仕方はほとんどが“風が吹けば樋屋がもうかる”式のものであったが,有機合成専攻の若者の環境意識がこれ程高いのには驚いた。多分,試験直納に講義した“atom economy”の話(B.M.Trost,Science,1991,254;Angew. Chem. Int. Ed., 1995,34,259)が印象に残ったものと察せられる。

 21世紀を前にして,有機合成化学も人類が直面している「環境」,「エネルギー」などの問題に戦略的に取り組んでいく必要があろう。この意味で,上記のエピソードは筆者にとって実に示唆的であった。最近,有機合成研究の新しい潮流の1つとして“environmentally benign organic synthesis”が注目されつつあり,昨年からこれをテーマとするゴードン会議も開始された。これまでの‘何でもあり”でやってきた合成有機化学にも,“環境・資源・エネルギー”という重大な制約を自ら課して,その手法を根源的に見直し,それが新しいサイエンスの創造を支える普遍的価値観となって新しい合成有機化学が花開くことを願ってやまない。


(平成9年3月24日受理)
ページ更新日
2012年4月19日