公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

ゲノム研究とこれからの創薬
伊藤 菁莪


 1972年のコーエン,ポイヤーらによる遺伝子組み換え技術の確立から25年,1977年の板倉らによるヒトのペプチド(ソマトスタチン)の大腸菌による生産の成功以来,20年が経過した。人類がヒトの遺伝子を試験管内で自由に扱えるようになって以来,遺伝子操作技術は飛躍的発展をとげ,21世紀初頭にはヒトの全ゲノム配列を解明する勢いである。

 この間に,バイオ医薬,生体医薬と呼ばれる一群のタンパク質医薬品が登場し,国内だけでもすでに16種類以上のバイオ医薬品が発売され,3500億円以上の市場を形成している。これらの中で,エリスロポイエンチン(EPO),顆粒球コロニー刺激因子(G-CSF)などはピカ新薬と呼べるもので,21世紀には世界市場でEPOは3000億円,G-CSFは2000億円に達すると予想されている。

 さて,1980年代の初めから,国際協力のもと,世界的規模で進められてきたヒトゲノム・プロジェクトは遺伝子地図の作成,DNA配列の決定,遺伝子情報のデータベース化と利用(Bioinformatics),遺伝子の機能解析へと進みつつある。ヒト以外でも,ある種の細菌,酵母,らん藻ではすでに全塩基配列が決定され,綿虫,イネ,マウス,フグなどでもゲノム・プロジェクトが進行中である。ヒトのタンパク質をコードする遺伝子(cDNA)は8万~10万個と推定され,ヒトの新規cDNAの獲得(特許化)をめぐって,米・欧・日で激しい競争が展開されているが,米国のベンチャー群が優勢である。代表的なゲノム・ベンチャーはHuman Genome Science社(cDNAのカタログ化と発現),Incyte社(炎症など),Millennium杜(肥満,II型糖尿病など),Myriad杜(乳癌,心疾患など),Sequana Therapeutics社(喘息,骨疾患)などで,それぞれ特色を出しつつ,スミス・クライン・ビーチャム,ファイザー,ロッシュ,リリー,グラクソなどの大手製薬企業と連携し,大規模な資金提供を受けて精力的に研究を進めている。

 このような遺伝子の特許化・権利化は,今後の日本の製薬企業の戦略にも大いに影響するが,国家戦略とも言える米国の特許戦略・動向には注意する必要がある。いずれにしても,ヒトcDNAの全塩基配列決定は2~3年以内に終了すると予想され,今後は,その機能解析,病態との関係の解明が重要になる。ここでヒトゲノム・プロジェクトの創薬研究へのインパクトを整理してみると,以下のようになろう。

(1)出生前診断法,発症前診断法の開発
(2)各種疾患モデル動物の提供
(3)遺伝子治療,細胞治療への応用
(4)新たなバイオ医薬(タンパク医薬,抗体医薬,アンチセンス医薬,DNA医薬)の開発
(5)新たな創薬ターゲット分子の提供

 上記のうち,各種疾患の原因遺伝子の解明は新たな創薬ターゲット分子の提供という意味で,今後の創薬研究上,重要である。分子生物学的手法を駆使した新たなスクリーニング系の確立と,それを用いる効率的なHTS系(High Throughput Screening)の活用,さらに多数の化合物の混合物を飛躍的な高効率で日動合成するコンビナトリアル・ケミストリーの利用などにより,新薬開発のためのリード化合物の発見とその最適化は飛躍的に進歩し,開発速度の迅速化が進んでいる。

 さらに,酵素,レセプター,転写調節因子などの標的分子の構造,機能から解析的に薬剤を設計する「ラショナル・ドラッグ・デザイン」も今後大いに進歩すると予想される。今後の製薬企業にとって,ゲノム研究から続々と輩出される標的分子のうち,どれに着眼し,どの位のスピードで新薬開発につなげることができるかが,大きな課題になるであろう。

 ゲノム創薬時代を迎え,今まさに,各企業の戦略と決断,若い研究者の独創的発想が求められている。新しい時代を的確にとらえた若い人達の活躍を期待したい。


(平成9年6月20日受理)
ページ更新日
2012年4月19日