公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

「化学」の濫用
細見 彰


 「兵器」「生物兵器」「化学兵器」。のっけから物騒な用語を並べて申し訳ないが,これらはいずれも兵器に用いられる用語で,国連や軍事,政治の世界で何の違和感もなしに用いられている。最初の「兵器」はいわゆる機関銃,小銃等の重小火器などや,戦車,装甲車,地雷,手榴弾などであり,これらは上のような分類をすると物理的作用を応用する「物理兵器」と呼んでもいいが,普通そうは言わない。ミサイル,戦闘機などの航空兵器,電気・光応用兵器,核兵器等も立派な「物理兵器」である。

 問題は何故このようなことを話題として取り上げようとしたかである。問題は2つ存在する。1つは「化学」という言葉が一人歩きをして「化学」という学問そのものが悪者扱いされかねないことにある。「化学」は物質そのものを扱う学問をいう。「化学」は諸物質の構造・性質ならびにこれらの物質相互問の反応を研究する自然科学の部門をいい,古く江戸時代には「舎密(せいみ)」といった。

 2つ日は何故「化学」という学問上の用語がいとも簡単に用いられてしまうのかということである。「化学兵器」と「化学」という言葉を簡単に使ってしまっているが,何も「化学」という学問が兵器になっているのではない。「化成品兵器」であって「化学兵器」ではない。「生物兵器」を「生物学兵器」とは決していわないのと同様である。いわゆる「物理兵器」そのものを「物理学兵器」とはいわない。「医薬品」は医学品や薬学品とはいわない。医用に利用され,また,治療に用いられるので医薬品ないし単に薬と呼ばれる。生物学や物理学と異なり化学から「学」を取り除くと「化」という1字になってしまい,どうにも使いにくくなることがこの間題を引き起こしている。

 このような例は他にも多くある。世の中に「化学物質」を言う言葉が氾濫している。また,「化学製品」という科学用語を多くの人達がそのまま鵜のみにして用いてしまう。マスコミの影響である。化学と化学的研究を応用することによって生み出されてきた製品の区別がつかずに「化成品」を「化学物質」と呼んでしまっている。「化学繊維」は人造繊維あるいは合成繊維である。化学肥料は天然肥料に対して人造肥料というべきである。「化学工場」で生産された化合物を「化学物質」という。単に「自然物質」に対して「人工(人造)物質」そのものではないだろうか。「化学物質」は物質(これは自然界に存在する物のすべてである)のうち,特に化学の研究対象となるような物質と定義すべきで,「人工(人造)物質兵器」に用いる人工(人造)物質などは化学の研究の対象になる物質ではない。「化学工場」そのものの呼び方もおかしい。何も「化学」を工場で作っているのではない。「化合物製造(化成品)工場」であろう。

 最近の新聞紙上にも,無頓着な「化学」の使い方がされていた。いわく「化学やけど」である。最近,ラジカセやパソコンなどの家庭携帯型電気製品の電源として電池が多用されている。中でもその寿命と電圧の安定性からアルカリ電池が利用される。この+-逆向き接続使用によって,劇薬の水酸化カリウムの強アルカリ液が洩れだし,皮膚につくとやけど同様のけがをする。ここでやけど同様と書いたのには理由がある。普通やけどは文字どおり火や高熱を持つ物体に触れたときに,生体組織が熟的に破壊されて起こるいわば物理的(物理学的でない)な怪我である。アルカリ液が化成品(化合物)なので「化学」やけどと書いたようである。生体組織がアルカリによりやけど同様の傷を負う。「化学」はやけどを引き起こす学問でもなく,学問自身は何の関係もない。ここには科学的無知が引き起こす「化学」の濫用がある。科学用語は注意して使川しないと無用の混乱を引き起こす。私達白身も「化学」という用語を安易に使わないように心掛けたいし,他の分野の方に思わぬところで迷惑をかけないように普段から気をつける必要がある。ただ,私達が世の中の役に立つと信じて有機合成研究の結果生みだした人工の化合物群には,その性質をよく知らないまま使用法を誤ると,社会から「化学」が悪いと非難を受ける物質になることもある。今後とも心したい。


(平成10年7月6日受理)
ページ更新日
2012年4月24日