公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

生物科学における有機合成化学
市原 耿民


 日本の農学部における有機化学の歴史は極めて古く,今世紀の初頭からオリザニン(ビタミンB1),コウジ酸,シノメニン,ロテノン,ジベレリンなど輝かしい単離,構造研究がなされていたにもかかわらず,合成化学を中心とする有機化学講座が1953年に,さらに生物有機化学講座(農産物利用学講座から改称)が1971年にようやく東京大学農学部に設置された。その後全国の農学部に生物有機化学またはこれに類する研究室が大学改革の進行とともに設けられるようになり,有機化学も農学の一研究室として教育と研究の一翼を担うこととなった。

 また人学改革の一環として学部のカリキュラムも根本的に見直されることになり,本学農学部でも専門基礎教育科目として農学概論なる必修科目が設けられ,各研究室の専門と生物生産への貢献や自然環境との関わりを講述することになった。生物有機化学を担当している筆者は当然のことながら,有機化学と農業との関わりを身近な例をあげ説明し,講義の最後に20分程ばかりの時間をさいて,レポートを提出させることにしている。2年ほど前この講義のとき「生物生産における有機化学の役割と展望」を題名としてレポートを書かせたところ,大部分の学生は生物生産の向上と環境との調和をはかる化学的アプローチの必要性を論旨とする内容であったが,2,3のレポートの中に有機化学の役割として有機農法の重要性をあげているものがあり驚かされた。明らかに両者を混同しているが,また環境問題が学生にも強い関心事となっていることを伺わせる結果であった。

 ひるがえってみると動物(人を含む),植物,微生物を対象とする農学と有機化学との接点は従来農薬や植物成長調節剤が中心になっていたが,工芸作物の生産する染料や香料などの有用物質との関わりも無視することはできない。例をあげると天然染料の1つ,藍(あい)は最も古くから世界中で大量に用いられていたが19世紀末に工業的製造法が完成し,天然藍は駆逐された。身近な例ではかつて北海道の特産物となっていたハッカの精油成分であるメントールや除虫菊の有効成分ピレスロイドは現在では安価な合成品が供給されるようになり栽培されなくなった。このようにみてくると有機合成化学は作物にとって換わる,極言するならば農業を衰退させる学問と誤解されかねない。一方工芸作物の中でも蔗糖はどうであろうか。蔗糖はたかだか炭素12個からなる二糖類であるが不斉中心となる炭素原子が9個も含まれている。そのため現在の高度に発達した合成技術によっても簡単に合成することは困難である。たとえ合成したとしてもそのコストは莫大なものとなり,到底化学工業として成り立つものではない。甘蔗やビートはいとも容易に蔗糖を光合成し,主食のコメよりも安価な食品として市場に出回っている。同様の観点からタンパク,デンプン,脂質を主成分とする食料の供給を化学合成により解決しようという考えは現在のところナンセンスである。植物がこれらの有用物質を生産する機構的解明は分子生物学の発展により化学的理解が深まりつつあるが,生体反応の素過程の解明は今後の進展にまたなければならない。

 有機合成化学は今やその爛熟期をむかえ,高度に複雑な天然有機化合物も合成標的とする場合も珍しいことではなくなった。しかしやや複雑な抗生物質,抗がん性物質をはじめとする様々な生理活性物質の実用的供給の立場から見ると未だしの感がある。今後はかり知れない多様な生物機能の一層の解明には有機合成化学からのアプローチが不可欠であり,またそこから得られた知見を活用しながらさらに効率的な合成法の開発と応用に期待がかかる。そのためには細胞生物学,遺伝子工学,生物有機・無機化学,有機金属・錯体化学,タンパク質工学,不斉合成化学,超分子化学を専攻する人達が互いに競争と協調を可能にする濃密な接触の場が重要となる。その中からインスピレーションや感性がみがかれ画期的な成果が続々と生まれるであろう。

 最近J.-M. レーン著「超分子化学」のなかに「化学は物質とその変換の科学であり,生命はその至高の表現である」の言葉を見つけ感銘を覚えた。生物科学には有機合成化学を通じて解明される無限のテーマとヒントが埋もれていると感ずるこの頃である。


(平成9年11月19日受理)
ページ更新日
2012年4月19日