公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

シンセシスのスキル
山本 尚


 カリフォルニア大学のバークレイ分校を中心に,周辺の8つの大学が協力してシンセシス・プロジェクトが進められている。有機合成のプロジェクトかと思っていたら,そうではなく,これらの大学がお互い協力しあって,新しい工学教育に関する手法を模索するためのプロジェクトであった。この教育プロジェクトでは,学問を基礎から教える従来の教育手法をやめ,最初から学生に個別の現実の工学に関する問題を与え,それに挑戦させることから教育を始めようとする新しい動きである。従来の教育方法では,学生の生き生きした興味や積極的な動機付けのないまま,惰性教育を進めてきたことへの深い反省から,現実の問題に直面したときに,学生の一人一人が自ら必要な学問を探し出し,JUST IN TIMEで自らの意志で選んだ学問を自らの努力で身につけてゆくもので,これによって教育の効率を飛躍的に向上させることが出来ると考える。一言でいえば,大学の教官が黒板に向かって独り言を呟く,昔ながらの教育手法はやめようということである。従って,ここでいうシンセシスとは知識を総合するという意味である。

 Organic Synthesisは古くから有機合成と翻訳されているが,調べてみれば,シンセシスという言葉は英語ではもっと広い意味で使われている。哲学用語であって,いくつかの個別の考えやデータをひとつにまとめ上げることによって,全体像をはっきりと理解することであるとされている。アナリシスと対照的に使われる言葉である。アナリシスはものごとの理を調べてゆく行為であり,シンセシスはいくつものものごとを総合してゆく行為であるといっても良いだろう。有機合成は物質をパーツから組み立てる学問であるが,少し広い意味にとらえれば,物質に関するいくつかの学問を総合して,新しい視点を獲得してゆくプロセスであるといえるかもしれない。総合することによって,初めて新しい物質を作り上げる新しい手法がはっきりと見えてくる。アナリシスが自然の仕組みを調べ,人間の自然への理解を深めてゆく「深化のプロセス」であるのに対して,シンセシスは新しい仕組みを作り上げることであるから,いわば「創造するプロセス」である。従って,有機合成では必ずしも唯一の解とならないのが普通である。常に複数の解が共存する。ひとつの解ができたとしても,もっと良い解が明日にも誕生する可能性が常にある。全合成には最終合成は存在しないし,合成反応の効率性は新しい反応の誕生によって常に破られてゆく宿命にある。一方,アナリシスでは唯一の解に導かれるべきものである。自然の真理はひとつだからである。必然的に,アナリシスが理学的であるのに対して,シンセシスは工学的といえる。

 現在は情報革命の時代であると言われている。情報によって知識の部分は急速に人類が共有する時代に入ってきている。こうした時代では,他人の持っていない情報を持っていることの価値が急速に減少してきている。その反面,知識よりもスキル(ものごとを正確に行うことのできる能力)の価値が重くなってきている。さて,アナリシスに知識の要素が大きいのと対照的に,シンセシスにはスキルの要素が非常に大きい。スキルを教えることは比較的難しい。確かに,有機合成は教えるのが難しく,一人で身につけるものであるとさえ言われてきた。個別の知識を総合してゆくことのスキルの部分がこれほど重要視される学問も少ないからである。極端なことを言えば,一人一人に個別の有機合成があっても良いのである。

 つまり,有機合成は物質に関する学問を総合し,常に新しい視点を獲得してきたが,今後も,学問の境界領域に勇気を持って踏み込むことに,その発展の鍵があるのは,こうした理由からである。当然,有機合成は化学の他の分野とは一味違ったものである。どちらかと言えば芸術的であり工学的である。個人の個性が色濃く反映されている。それ故にこそ,これまで多くの若者の心をとらえてきた。有機合成にシンセシスの要素が大きいからこそ,今後の無限の可能件が信じられる。企業において,プロフィットの70%以上は,知識ではなくデザインによると言われている。有機合成化学者が物質に関する学問を自ら総合し,積極的に自らの個性をデザインしてゆくことが,明日の有機合成の発展に繋がると信じる。


(平成10年1月8日受理)
ページ更新日
2012年4月19日