公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

合成化学の新しい視点
廣部 雅昭


 21世紀の展望云々という明るい夢だけを語る時代は終わった。バトンタッチゾーンで全力で、並走する時期に入った今日,すでに現実の問題として真剣に取り組まなければならぬ多くの未解決の事柄がクローズアップされて来ている。

 今世紀,科学の進歩によってもたらされた物質文明の発展が人類に与えた恩恵は計り知れない。しかし同時に予測を越えた様々な問題点を残して来たことも事実である。地球規模での環境問題はその最たるものであろう。昨今環境ホルモンと称される物質群が,生殖毒性,催奇形性,免疫毒性などの原因になるとの指摘がなされた。環境ホルモンという言葉そのものは,今後科学的因果関係が明確になる中で,より適切な表現に変わり得るものと思われるが,次世代を担う若者が自らに降りかかる深刻な問題として強い関心を抱くのは当然である。

 合成化学の進歩によって地球上にもたらされる化学物質は等比級数的に増加しているが,それらの人体に及ぼす影響等については不十分ながらも検討が加えられ,取扱上の指針が与えられているものも少なくない。医薬についていえば,本来人体に影響をもたらすものであり,当然ながら薬効,毒件の評価は可能な限り厳密に行われている。それに対し,いわゆる環境関連物貿のような人間生活において非意図的に生成し,人体に摂取されるものは対応が極めて難しい。環境ホルモンの中で代表的なダイオキシン類についてもすでに20年以上前から主として発がん性猛毒物質として注意が喚起されていたが,ピコグラムレベルで内分泌撹乱など人体に重大な悪影響が及ぶとなれば,人心を極度の不安に陥れるのは当然である。

 化学物質による環境汚染対策に化学者が果たすべき責任は重大である。ダイオキシンは一般廃棄物のゴミ焼却などにより生成し,その原因はポリ塩化ビニルやプラスチック類が関与しているといわれている。現在は主として分別処現 さらにはリサイクル,ゴミ減量作戦など省資源的目的も含めて対応しているが,本質的解決にはならない。なぜダイオキシンが生成するのか,その生成機構の解明に基づく焼却温度の制御,新規触媒の開発なども化学の重要な領域である。非分解性,非可燃性,非腐食性など安定堅牢な物質が地球を汚染し,可燃性物質も二次的に有害物貿を発生するとなれば,発想の転換が必要となろう。本来の有益な特質・機能を保持しつつ,有害物質を生成しない化合物の創製をはかるべきである。微生物による代謝・分解が可能な構造を組み込み,“土に返す”物質のデザインも必要であろう。廃棄の際,何らかの処理を施すことで分解,劣化,腐食を促進する方法もあろう。生物に学ぶ“分解化学”や“構造毒性相関理論”などの新研究分野の確立と,それらを基盤とした新しい合成化学の展開が期待される。環境ホルモンとしては,他にも様々な用途をもつ数十種類の化学物質が被疑者としてあげられている。現在ようやく国内外で様々な検証のための研究が開始されたが,科学性に裏付けられた情報の公開と国家的対応が必要である。今日,合成化学の進歩は目覚ましく,近い将来どんな複推な分子でも合成が可能となろうが“やりっぱなしの化学”と批判されぬためにも,今後は二次的な影響をも考慮した機能性物質の創製が求められよう。

 過日,元本協会会長である向山光昭先生の文化勲章受章祝賀会での言葉が印象的であった。先生の輝かしい業績の1つである強力な天然制がん活性物質タキソールの全合成の可能性を打診された際,先年は胸を叩いて引き受けられたとのことであるが,その際あの複雑なタキソールの構造はご存じなかったそうである。先生の辞書に不可能という文字はないのであろう。まさに頼もしい究極の合成化学者としての自信と信念を示されたエピソードであるが,合成化学の無限の可能性を期待させるに十分である。そのためには的確なニーズの提供と理解,設定目標の達成と成果の相互フィードバックが関連諸分野の連携の中で円滑に推進されることが極めて重要である。その意味で本協会の果たす役割は大きい。理・工・農・薬の分野にさらに医学を加え,環境問題に特に関心の深い若手研究者からの積極的なアイデアの提供にも期待したい。現在の研究企画賞に加えて環境賞の20年振りの復活を協会に対し提言する所以である。


(平成10年6月1日受理)
ページ更新日
2012年4月19日