公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

合成物質と天然物質の生理活性
上野 民夫


 合成農薬は有機合成化学がもたらした最大の功績の一つだが,社会から最も厳しく監視されてきた化学物質で,特異な運命をたどってきた化学物質と見なしがちである。レイチェル・カーソン女史が「サイレント・スプリング」を著して以来,その食物への残留と環境への拡散による健康と生態系への影響が常に社会問題として注視されてきたことはご承知のとおりである。その中にあって,より安全性の高い選択的な活性と環境への負荷の低減を目指して,農薬ではいち早く新たなる研究体制の整備・登録基準の強化・使用方法の監視を図り,幾多の障壁を一つ一つ乗り越えるべく研究が展開されてきた。その結果,理想的な農薬に到達するにはまだまだ障壁はあるが,現状の農薬はまずは安全性には十分配慮された化学物質と言えるようになった。

 一方,最近化学物質よる内分泌撹乱作用が指摘されるにいたって,現在の文明を支えるすべての化学物質に対して新たなる視点から社会の監視が拡大されるようになり,内分泌撹乱物質(いわゆる環境ホルモン)は現在化学界が当面する最大の社会問題を提出している。一応障害を乗り越えてきたと考えてきた農薬においてもこのことは例外ではなく,世界の化学産業界全体が一体となって国際的にも目下対応を検討中である。これに対して,我が国の政府も問題解決に向けて真摯な対応を図りつつあることも周知のとおりである。

 なぜこのような問題が起きるのか。生理活性物質の化学の研究にたずさわってきた一員として自省を含めて考察を加えてみる。近年の合成化学の進展に伴い,化学は天然を凌駕する活性を示す数多くの合成化合物を産み出してきた。新しい生物検定法の発見・作用点における分子間相互作用の解析など生化学の進展も相まって,研究はより有効に活性を発現する化合物の創出へと加速されている。以下に述べることは医農薬の開発ではすでに常套手段となっているが,たとえば開発のターゲットとして天然生理活性物質あるいは既知・未知の合成物質をリード化合物とすると,活性の増強のためには作用点に至るまでの代謝分解の抑制,作用点での相互作用の強化を主体とすることが多い。活性の向上を求めて,構造の変換と安定化が図られるが,天然活性化合物をリードとする場合では輸送および活性発現に関与する部位は強化されるが,その反面で代謝・分解に関与する部位には思い切った簡略化あるいは削除が企てられる。しかし,我々人類だけでなく一般の野生動物も含めて,生体の恒常性は内分泌系,免疫系,神経系からなる極めて多様で精緻なカスケードでの総合的な調節の結果であり,さらに生態系では食物連鎖をはじめとする膨大なネットワークが関与するので,投与される新規活性物質の評価については個体のホールボディだけでなく生態系も含めた影響を十分に注視することが必要となる。たとえば,上記の代謝・分解に関与する部位を無意味として削除することなどは,複雑なカスケードとネットワークでの意味を無視するものであり,大きな危険性をはらんでいる。「自然は無駄をしていない」ことを強く意識すべきと信じる。

 一方,近年の合成化学物質による内分泌撹乱作用については,未知の活性の発現として驚嘆の念を禁じ得ないと思う人も多いが,予期せぬ活性の発現は今に始まったことではない。サリドマイド,ダイオキシンは言うに及ばず,合成化合物のランダムスクリーニングよる活性化合物の選択はその典型となる事例である。

 合成農薬の発見は,農産物の安定供給と快適な衛生環境を維持するために人類社会に大きく貢献してきた。よく言われることだが,科学技術は成果の使い方によって正と負の効果を発揮する諸刃の剣であるが,現在ではその負の効果が社会に不安をもたらす大きな原因となっている。持続的な人類の繁栄と地球環境の保持が渇望されている今日,化学者がこの問題に自ら対処するには,社会不安をもたらす要因を冷静に検証し,化学技術がもたらす負の効果の要因を科学的に把握し,それを回避する統合的な研究計画を立案・実行することが急務である。これには従来の化学の守備範囲だけでは対応できない面も多く,生物学,物理学をはじめとする自然科学に留まらず,人文・社会科学との連携も必要である。また化学の内面においては自然の仕組みのより深遠な探求が要求される。負の効果の温存と対応の遅延は,将来により膨大なコストの負担を強いるだけでなく,人類の持続的な繁栄をも脅かすことになる。


(平成10年11月4日受理)
ページ更新日
2012年4月17日