公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

経済-製造業-有機合成
小野田 武


 この原稿を書いているのが8月末日。折しもロシアのルーブルが国際通貨として崩壊し,世界唯一の高い経済指数を維持していた米国株式市場も8千$を切る恐れすら感じさせる反応をみせた。むろん,日本,欧州,アジアの市場は一段と低迷し,世界規模での不況色がますます強まっている。これまでも,バブル崩壊の後遺症に適切に対処できず,デフレスパイラルの蟻地獄に陥っている日本経済は,かろうじて過去の蓄積と一部の世界競争力を持つ製造業の健闘で社会的混乱を起こすこと無く耐えてはきたが,いよいよ苦しい状況に追い込まれてきたと言えよう。本巻頭言が掲載されるであろう平成11年2月には,この閉塞感は改善されているであろうか。

 そもそも戦後半世紀にわたる日本の経済発展は,牽引車的役割を果たした一部の製造業への技術集約による国際競争力強化によってもたらされた。その富の蓄積が国内経済を活性化させ,巨大なGDPを実現させた。当然,製造業のGDPに占める比率は低下し,現在では25%程度であり,経済先進諸国と類似の構造となっている。しかし,GDPの70%を占める第3次産業は全く国際性を持たぬ特異な構造を持ち,世界経済のグローバル化の進捗とともにその脆弱性をあらわにしてきた。その構造改革とともに,新産業創出(特に非製造業的)への希求が叫ばれて久しいものがある。「日本発の国際的新産業はカラオケとK-1と揶揄されるごとく,米国の経済の起爆剤となっているベンチャー企業群との落差は大きい。特に,高い知的レベルの若者に夢を与えているか否かの差異こそが深刻な問題ではなかろうか。

 米国のベンチャー企業群の出発点の多くは,科学技術のブレークスルーに依存している。その期待されるアウトプットは製造業に関連するものも少なくないが,肝要なことは,「アウトプットへの夢」を商品として,それに多大な資金が投入され,多くの高い教育歴の野心的な若者の雇用が創出されていることである。資源・環境等の制約を受ける現代社会,経済の側面からしても,この種の新産業は「高額な夢」を商品とするエネルギ弾性率が極めて高い望ましい成長産業の1つである。21世紀に向けての我が国の「科学技術創造立国」のイメージには,製造業偏重の誇りを受けることが少なくないが,科学技術の経済的アウトプットは古典的な製造業拡大のイメージとは異なっていることを広く認識することが大切ではなかろうか。また,そうあらねばならないことを当事者は十分意識せねばならない。

 翻って我々の有機合成化学の研究を直視してみよう。質量共に世界有数のレベルにあると自己評価しているという詰も聞くが,何を評価基準とした判断なのだろうか。確かに研究者数も論文数も多く,世界的に高い評価を受けている権威者も少なくない。関連する産業もそれなりに健闘しているとも言えよう。しかし将来に目を向けた場合,多額な資金と膨大な労働力を投入したくなるような「研究の夢」商品を創出しているだろうか。広く社会の青少年に有機合成化学への憧れと希望を与えているだろうか。一部であっても新規性の要素があれば学術として価値があるという論旨を否定はしないが,あまりに矮小化された自己満足的な評価基準ではあるまいか。

 確かに「夢商品」を有機合成化学単独に求めることはその性格上酷であろう。有機合成化学は産業技術の一要素であることが少なくない。その認識に立てば,高い商品価値評価を受けて売り物になる有機合成化学研究成果を創出する道筋は見えてくる。少なくとも工学系の有機合成化学の研究者には,21世紀の経済社会に多大な影響を及ぼすであろう産業に焦点を当て,関連異学との密接な連携によるブレークスルーを狙う努力が一段と望まれるのではなかろうか。

 我が国における研究型ベンチャー企業の未発達状況には誰しもが危機感を抱いている。遅まきながら行政もさまざまな助成策を講じてはいるが,その中核となる人材と科学技術の種があることが前提となる。「科学技術創造立國」への責務を果たす研究者の役割は,必ずしも従来の延長線上には無いことは確かであろう。


(平成10年9月1日受理)
ページ更新日
2012年4月17日