公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

天然物合成の楽しさ
小笠原 國郎


 “Because it is there.”この余りにも有名な言葉を私の研究の進め方への解答としてきた。天然物という目指すべき多くの輝く峰々が,天然物合成に夢中であった私の周りに存在していたからに他ならない。最高峰を目指した人の言葉を,ハイキング程度の丘を目指す自らの解答としながら研究を進め,その一方で峰々を軽々と征服していく人々の素晴らしい仕事に感動し,興奮し,その道筋を自分の脚で辿るように楽しんできた。

 天然物合成は研究者の能力と個性の発現の場として見ることができよう。そこでは私達はまず観察者として天然物という唯一の頂上に向かって進む研究者達の知力と熟練の限りを尽したアプローチを知る楽しみがある。そして参加者として自らをその競争の最中に置くことができる。また時には思いがけない発見に遭遇する喜びもある。さらに,この過程を通して有機合成化学を学び,また教育を行うこともできる。これほど楽しめる世界はそうあるだろうか。このような住心地の良い世界に酔い痴れてしまっていたことが上のような大それた解答をさせてしまったのかもしれない。

 しかし,もうこれからはこの解答では許していただけないであろう。昨今の有機合成化学のめざましい発展,特にこの20-30年の進歩はわたくしどもの前に輝いていた峰々の多くを次々とハイキング向きの平凡な丘に変えてしまった。天然物合成化学として独立を誇った領域を,有機合成化学はこの間に単なる1ブランチとしてその傘下に収めてしまったとさえ言えよう。本来,生体由来の化合物のみを扱うために生まれた有機化学という学問がたちまちその本来の意義を失って今日の発展に到ってしまったように,天然物の合成を第一義にした有機合成化学が天然物合成化学の領域を乗り越え,無限の非天然化合物の創造と活用というサイエンスに向かって急速に突き進みつつある様をまさに眼前に見ている思いがする。まさに歴史的必然であり,有機合成化学がその本来の姿を現しつつあるとはいえ,わが天然物合成化学が重みを失いつつある現実に一抹の寂しさを覚えざるを得ない。

 今日までの有機合成化学の進歩は,数々の峰々の征服のために捧げられた天然物化学者の気の遠くなるような努力と時間,その間に培われた知恵と経験にその多くを負っていることは明らかである。これからも天然物に関わる化学者は依然として有機合成化学の発展に重要な役割を占めるはずであり,フィードバックされた合成化学的知識をもとに征服されずに残されている多くの峰々,そして待ち構えている予想もつかない峰々など,次々に征服し続けるであろう。そこで得られた経験と知識は,再び有機合成化学の発達を促し,未だ峰々が必ずしも明確でない,あるいは新たな目標となるべき峰を見いださねばならない非天然化合物の化学の展開における強力な指針となり続けるであろう。

 一方,われわれを取り巻く環境を見るとき,内分泌撹乱作用物質,ダイオキシン,フロンや炭酸ガスの排出に関わる問題,あるいはエイズやマラリヤ,従米の薬剤に耐性をもつ病原菌の出現などなど,有機合成化学者の挑戦を待ちかまえている峰々が次々と眼前に聳え出して来ている。当然のことながらわれわれはこれらにも気概と情熱をもって立ち向かわねばならない。天然物への弛まざる取り組みが有機合成化学の今日の進歩をもたらしてきたように,これらの課題への真剣な取り組みが有機合成化学をなお一層発展させるはずである。来たるべき世紀における有機合成化学の役割はますます広がりその責任はさらに重くなるといえよう。

 このようなことを考えている矢先にたまたまウッドワードの言葉に再会した。有機合成化学の真髄に触れていることに改めて気づき,およそ半世紀を経てもなおその新鮮さを失わない輝きに感銘するとともに天然物合成に向かう気持ちが再び高揚するのを覚えた。

“There is excitement,adventure,and cha11enge,and there can be great art in organic synthesis. These alone should be enough, and organic chemistry will be sadder when none of its partitioners are responsible to these stimuli. ” R. B. Woodward, 1956.


(平成11年5月27日受理)
ページ更新日
2012年4月17日