公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

先端生命科学へもっと化学を
田村 準也


 生命科学の先端領域としてゲノム研究が大きく進展している。生命を設計図のレベルまで解明し、医薬品への応用だけでなくヒトとは何かの究極まで迫ろうとしている。科学雑誌や新聞で頻繁にそれらの進捗が取り上げられているが、“化学屋(昔、有機化学を専門としていたので今は別稼業でもあえて自称しています)”からみると生命科学に関する新知見のほとんどがいわゆる生物関連である。疾患に関する新しい遺伝子や蛋白質の発見およびその機能の解明など実に興味ある発見であるが、遺伝子も蛋白質も有機化合物そのものであり,これらの新規生命現象をもっと有機化学的に解明できないものであろうか?

 脳機能に関係する生体分子としてドパミン、セロトニン、アセチルコリンなどが昔から知られており、それらの受容体も多くのサブタイプの発見も含めて研究が進んでいる。しかし、これらのリガンドと受容体の間の反応機構がどのくらい有機化学的に解明されているであろうか?リガンドや基質が受容体や酵素の活性化部位と相互作用することは論じられているが,有機反応論的に詳細に検討された例は多くない。有機化学反応の分野では酸化還元反応、縮合反応、転位反応など多くの単位反応の反応機構が詳細に解明されているのに比較してこれらの生命反応は化学屋からみればかなり定性的である。喜怒哀楽や恋愛感情など高次の脳機能も有機化学的にみれば単位反応の組み合わせのはずである。メンデルの遺伝法則は1865年に見いだされ、その90年後に遺伝に関連する分子としてのDNAについてワトソン・クリックが解明したあたりから急速に生命現象の解明が進んでいる。1970年代後半から体外受精による人間の誕生、1997年のクローン羊の誕生、現在進行中のヒトゲノム計画など化学屋からみると化学的に解明したくなる生物分子が多く登場してきている。

 生命現象に登場する有機化合物が高分子であることから活性化機構が複雑ではあるが、近年構造生物学の領域がそれに迫ろうとしている。例えば、キナーゼ類酵素のSH 2領域にペプチドや低分子化合物が相互作用する様式がⅩ線やNMRを用いてかなり詳細に研究されているが,欲張りの化学屋としてはまだ物足りない。SH 2の活性に関与するであろうと思われているポケットに化合物がフィットするかどうかをコンピュータを駆使して生物活性との関係を定量的に解析することを試みている。使用するコンピュータの性能やアルゴリズムの新規性,あるいはビジュアルな確認方法などの技術的進歩には感心するものの,いま一つ実態としての満足度が十分でない。この種のアプローチは医薬品設計には重要であるが、結果の出たものを合理的に説明するのには優れているが結果を予測する設計は依然として満足するまでに至っていない。チェスのプロが最近計算機に負けたことが報道されたが、医薬品設計についてはメデシナルケミスト自身の脳内回路の計算機が最強である。生命現象を実験有機化学として迫るにはまだ相当の道のりがあると思われる。1960年代に分子軌道法で水素分子やメタンなどの単純分子のエネルギー計算を勉強した時に、それを通常の有機化合物全般に当てはめようとすると実用的にはほとんど無理なことが多く,歯がゆい思いをしたときと似た感情を持っている。

 低分子化合物で医薬品になる可能性の高いものは分子量が600以下くらいと経験的にいわれている。構成原子がC,H,N,O,S,ハロゲンとするとその組み合わせは立体化学を含めても無限の宇宙ほどの数ではないような気もする。一方、化学屋の参画を待っている面白い生物分子が世の中に一杯ある。分子生物や遺伝子の華々しさに負けずに有機物質としての挙動を極める化学アプローチがもっと盛んになることを望んでいる。昨今は大学で有機化学を専攻する学生の減少が激しいと聞いている。無理に有機化学者を増やしてもしょうがないが、化学と生物の間の学際的融合は重要である。まもなく21世紀であるが、遺伝子や蛋白質を物質として自由に合成や修飾ができ、高分子同士あるいは高分子と低分子の生命反応が今の有機化学反応論のように詳細に論じられ,生命の本質に迫るようになることを期待している。


(1999年11月22日受理)
ページ更新日
2012年4月17日