公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

プロセス研究への期待
伊藤 勇


 20世紀に生まれ育ち世界中の人々に夢と楽しみを与えている化学商品としてカラー写真がある。それは1930年代にジョージ・イーストマンという天才発明家によって生み出されたが,今日までの技術進歩には日本の技術者も少なからず貢献してきた。カラー写真は,今日その技術力とマーケットシェアで日本が世界のトップを競う数少ない化学商品である。

 カラー写真には100種類にも及ぶ機能性化合物が10数層の膜中に精緻に組み込まれているが,日本の技術者はそれらの開発において数多くの創造性豊かな成果を上げてきた。これは日本の大学における有機合成化学のレベルの高さと,その基礎力を積極的に商品開発に活用しようとする向山光昭先生をはじめとする有機合成化学分野の権威によるゼミ等の長年にわたる企業内教育のたまものであると思っている。

 日本の技術者は数十年にわたり巨人コダックを師と仰ぎつつも,いつかは師を乗り越えたいとの想いで努力してきたが,今日日本企業がコダックと肩を並べつつあることを見るにつけ時の流れを感じるものである。

 しかしコダックとの技術競争はどれをとっても熾烈なものであった。筆者が担当していたカラーネガ分野では,1980年代の半ばに,発色・堅牢性に優れたシアンカプラーがコダックによって実用化された。それは全く予測していなかったことだけに大変な窮地に立たされた。経営陣からの叱咤の中,2年近くたってようやくコダックのものより格段優れる化合物を見いだしたが,合成ステップが12工程と長くトータル収率も低くてとてもコスト的に実用化は無理な状況であった。製造部門へ試作検討依頼をしたものの,案の定断られてしまった。そこで覚悟を決めて既存の合成ルートを捨て,机上で最短の合成ルートを選択しそれを可能にする新反応の発見にかけることにした。不安の中にもそれに没頭すること6カ月,若手共同研究者による思いもよらない金属触媒反応の発見により,反応工程が4工程短縮されトータルコストは何と20分の1に下がり実用化された。このシアンカプラーは開発後10年以上たった今でも光輝いている。

 筆者はこの体験を通してプロセス研究の重要性,特にそのコスト削減効果を強く認識するとともにその醍醐味を十分味わうことができた。

 近年,カラー写真分野においても生産のグローバル化が急速に進んでおり,そこに組み込まれる機能性化合物の一部は現地で製造される時代を迎えている。そうなると必然的に現地と日本とのコスト比較がなされるが,日本の人件費,原料・溶媒・設備等の価格,あるいは電力その他の経費のどれをとっても日本はかなり不利な状況にあり,ある化合物を同一の合成法で生産した場合,コスト的にはなかなか厳しいものがあり,品質保証と信頼性を武器に現地と競争することになる。これはカラー写真分野にとどまらず21世紀の日本の有機合成化学を基盤とする商品開発の宿命ではなかろうか。筆者は2年前よりプロセス研究に業務を転じていることもあり,昨今このような思いをますます強くしている。

 さて日本はこの宿命的とも言えるハンデキャップを克服していけるのだろうか。まさにここに,プロセス研究に対する産官学の協働への期待と,それを実現していく上で中核となるべき当協会への期待がある。前述の品質保証と信頼性は物造りの基本であり,もはや競争力にはなりえない。海外との真の競争力は特許化された画期的な新規合成技術しかありえないし,さらには地球環境問題にも十分配慮したグリーンケミストリーの視点も21世紀の競争力の源泉となるであろう。

 筆者はこの数年間,当協会の本部・支部業務をさせていただいたが,産官学の技術交流がまだまだ弱いように感じている。これは,産の学会への関心の低さと官学のニーズ(実学)志向の弱さに起因しているのではなかろうか。日本は米国型のベンチャー企業が育つ環境にはほど遠いが,産官学のより密接な技術交流や官学の人材が加わった企業内ベンチャー等,日本流の様々な仕組みの追求からプロセス研究の分野で世界をリードする成果を持続的に上げていきたいものである。そのような活動を先導し支援する役割を当協会に強く期待している。


(2000年5月1日受理)
ページ更新日
2012年4月17日