公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

21世紀を化学の世紀に
伊藤 健兒


 量子論と相対論で幕を開けた20世紀は,物理学を中心的な学問基礎とする新たな産業が次々と勃興し,人々の暮らしを豊かにしたと同時に,その生活様式を大きく変化させた人類史上画期的な百年であった。21世紀こそ,化学者の叡知から生み出される新しい原理に導かれた新しいパラダイムに基づく産業社会が花開くことを期待したい。

 20世紀に,有機合成化学の分野は,全産業の基本となる多種多様の有機材料,医薬品,農薬などを供給し,物質文明の発展と人類の生存に大きく貢献してきたことは言うまでもない。しかし,一見大変な成功を収めたかに見える有機合成の領域においても,21世紀を担う化学者の高度で独創的な日本発の創意工夫が期待されている課題は山積している。例えば,有機化学工業の出発点になるナフサの熱分解によるオレフィン製造をはじめ様々なプロセスの省エネルギー化,医薬や農薬をはじめとする精密化学品の製造に伴う溶媒や反応剤の低減などプロセスや素反応のグリーン化,大量に出回っている高分子材料の環境共生型再資源化などが挙げられる。また,基礎研究として,これまで分子を中心として発展してきた有機化学の蓄積と分子集合体として発現される機能とのかかわりの解明と合理的な機能の分子設計指針の確立は重要である。

 これら解決すべき課題はきわめて多いにもかかわらず,ここ十数年来,化学の分野とくに有機化学をはじめとする合成化学の領域に,高い志をもって進学してくる若者が急激に減少していることは深刻な問題である。この傾向は,先進工業国では一般的であるが,米国のようにその歴史的背景と高い科学技術レベルに加えて,言語的な障害が少ない場合には,グローバルにすぐれた人材を吸引して対処している。統一後の欧州もそれに近い状況になりつつある。しかし,大陸からの渡来人が文化や技術をもって流入した古代以降,千年以上にわたり外国との交流が限定されてきたこの国の歴史と,日本語という特殊な言葉の障害もあって,米国や欧州のような国際的流動システムに早急に変わることは考えられない。当面は,若年人口の減少と理工系離れの傾向のなかで,将来の化学産業と基礎化学を担うこの国の有能な人材の確保を真剣に考えざるをえない。

 高等教育への進学者が4割をこえ,センター試験とそれに先立つ共通一次試験の導入以来,20年余りに及ぶ偏差値による序列化の影響で,若者が自己の興味や適性を考え,一生の仕事として何をすべきかで進路を決める時代は遠くに去った。この国の人々がいつもそうであるように現在の若者も「横並び一線」となって,自己の興味や適性にかかわらず,マスコミなどで取り上げられる機会の多い医療,情報,バイオなどへ進むことを希望する。それがかなえられなければ,自分の能力と偏差値でどこへ進学でき就職に有利かの価値判断で,将来プロとして進むべき通が決まってしまう。そのため,入学後に決まった専門分野に学問的好奇心を持てなかったり,当初の希望がかなえられなかった劣等感を引きずって,学業や実験に身が入らない学生も見受けられる。

 有機化学に志を抱く者だけが教育・研究の場に居ることが暗黙のうちに了解されていた時代ではなくなった以上,結果として化学の道に入って来た若者に,「化学を学びそのプロとなろうとする君たちは幸いである。人類社会と地球環境のために貢献できる化学の仕事が無数にある」と,進路決定後のはやい段階で強く動機づけし,夢を与えることが大学教師には必要であろう。

 それよりさらに重要なことは,有機化学にかかわる産業界の方々が,化学と化学産業の将来がいかに希望に満ち,世界をリードしているかについて,化学の人類社会への過去および現在の大きな貢献の実績と必要性を,積極的に社会に向けて発信していただくことが必要不可欠である。それに加えて,若者に出来るだけ多く化学関連産業で働く機会を提供し,将来のわが身に漠たる不安を抱いている化学者の卵達に明るい未来を指し示していただくことを強く期待する。産学官で力を合わせて,有機合成化学の魅力と豊かな将来性を強くアピールしないかぎり,21世紀を化学,とくに有機化学の世紀にすることは容易ではない。


(2000年6月26日受理)
ページ更新日
2012年4月17日