公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

優れたセンスをいかにして培うか
今本 恒雄


 近年,高校生や中学生さらには小学生さえも対象にした大学開放講座などの催しが盛んに行われている。一日体験学習とか高等学校での出前講義などがそれである。また,筆者が所属する千葉大学では2年前にサイエンスプロムナードというミニ科学館が作られ,一般に開放されている。学童から高校生,さらには中高年の人も訪れ,科学とのふれあいを楽しんでいる。

 偉大な業績をあげた人の過去を辿ってみると,子供の頃より専門の分野に触れる機会が多かったとか,ある時に俄然目覚めさせられるような強烈な体験をしたということが多い。優れた研究者を育てるためには,そのような機会をできるだけ多く作った方がよいということで,若者の理科離れを防ぐという目的も兼ねて,前述のようなことが行われている。筆者もこの種の企画に賛成で,昨年より近隣の高校への出前講義と中学生の研究室探訪を引き受けている。

 後者の研究室探訪は次のように行われた。男女数人の中学1,2年生を教授室のテーブルの周りに座らせ,分子模型に触れさせながら,物質というものの存在や,それを対象とする学問である化学の大切さを説く。また,研究について私なりに話し,アメリカ化学会誌や有機合成化学協会誌を広げて,一次情報誌と二次情報誌の役割を教える。さらに,大学で何を学ぶかについても触れる。有機化学の上下2冊の分厚い教科書を広げると,皆「わーっ」と歓声をあげて覗き込んできた。もちろん,彼らにとって有機化合物の構造式などは奇妙な図形にしか見えないかもしれないが,目が輝いている。それを見て勢い力がこもり,有機化学が極めて重要な学問であることをわからせようと努める。教授室での話を終えると,実験室に連れて行き研究の現場を見せて回る。そして最後にドラフト中で濃塩酸と濃アンモニア水を用いた実験を行い,約1時間半の研究室探訪が終了した。生徒達は一様に別世界に来たような顔をしながら帰って行った。

 これはごく小さな体験学習であるが,彼らの人生に何らかの影響を与えるであろう。ただ,もっと重要なことは,実際の研究に従事するようになったときに本人がどれだけ優れた研究能力を持っているかである。言うまでもなく,特に独創的研究をするためには高いレベルの「センス」が要求される。そのセンスとはどのようなものか? “Sense”を英和辞典で引いてみると,感覚,五感,感性,勘,意識,思慮,分別,判断力,常識などとあるが,センスは各人の全人格の中に備わっている能力の一種で,対象によってもニュアンスが異なる。研究者の優れたセンスとなると,つぎのようなことを指すのであろう。数多くの事象の中で何が本質であるかを見極める能力。ジャングルに分け入って,けもの道を探すがごとく,未知の分野に敢然と飛込んで行き,新しい事実や価値を発見する能力。最初は小さな研究テーマであっても,鋭い着眼と知恵をもってそれを大きく発展させる能力などである。逆にセンスがないと,些末な研究に明け暮れてしまうことが多い。

 優れたセンスを備えるには,どうしたらよいであろうか。前述の子供の頃の体験もその形成に役立つが,高等教育課程における勉強と研究の実践によってかなり培われると思う。特に大学の学部において専門科目と一般教養の両方を徹底的に学ぶことが重要で,その段階で十分な基礎学力を身につけるべきである。その上で,傑出した師を選び,優秀な先輩と友人をもつことである。筆者は折りにふれ学生達に,国内外を問わずノーベル賞級の研究者に師事し徹底的に学び取ることを強く勧めている。もうひとつ,専門を問わず超一流のものを見ることも勧めている。真にすばらしいものに触れた感動は,優れたセンスを培う原動力となるからである。

 筆者は長い間有機化学の分野で研究の醍醐味を味わってきたが,大きな仕事をやり損ねてもいる。その主な原因は,自分に優れたセンスを伴った総合的な研究能力が備わっていなかったためである。今にして思えば,傑出した先生に師事させていただいた点は良かったが,残念ながら基礎学力,特に語学力,と幅広い教養が欠如しており,さらにいざという時の集中力と執拗な粘りがなかった。自省を込めて,この一文を書いた次第である。

(2003年8月18日受理)
ページ更新日
2011年11月7日