公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

有機合成の化学情報学
藤田 眞作


 現在,化学情報学(および数理有機化学)に力点をおいて研究しているが,私の研究歴の出発点は,有機合成化学にある(野崎一教授,野依良治教授(当時助手),故高谷秀正教授(当時大学院生)のご指導のもとに,卒業研究を始めた1960年代後半を懐かしく思い出す)。

 化学情報学の分野に足を踏み入れたのは,有機合成化学協会誌の編集委員(1979-1982)をしたのがきっかけである。いまでも連綿と続いている「新しい合成」の欄について,当時は反応の分類の項目がなかった。この欄を切り抜いてカード化[当時のデータベースは,カード化したものをファイル(コンピューターのファイルでなくて物理的ファイルである)に保存していたものだったので,この言葉にも懐かしい響きがある]する際にインデックスになるようなキーワードをつけることを編集委員会で決定し,キーワードの選定作業を私が行うことになった。その成果は,現在も「新しい合成」の枠の右上で,引き続いて機能している。

 かなり苦労をしてキーワードを選定したが,有機反応をキーワードと反応スキームだけで表現するのは,情報に抜けがでてくるという感じがぬぐいきれなかった。ちょうどインスタントカラー写真用色素放出剤の開発研究が一段落したので,その本業とは別に,有機反応の表現という基本的な問題を考えはじめた。ほどなく,虚遷移構造(imaginary transition structures)の着想をえて,これをもとに有機反応のデータベース化を中心とする新しい職場をつくることにした(当時所属していた富士フイルム足柄研究所の上層部の英断に感謝したい)。

 しかしながら,虚遷移構造概念については,世の中の反応はかんばしくなく,有機化学者からは「当たり前のことじゃないか」という批判を受け,多くの場合「有機反応データベースシステムの開発」という技術的なレベルでのみ理解されていたことは残念であった。多少,後知恵になるけれども,虚遷移構造とその部分構造の両方に,化学的な意味(それぞれ,個別の反応と反応タイプ)があることを明確に示したことこそ重要であると,今では考えている。いいかえれば,虚遷移構造の提案は,反応の体系的分類学の基礎を確立したという意義をもつ。この点に関しては,ケクレの構造(個別の化合物)と部分構造(化合物タイプ)が両方ともに化学的な意味をもつことによって,化合物の体系的分類学の基礎となっていることに対比できる。大学の定年も近くなったので,虚遷移構造概念について,書物のかたちにまとめて,その有用性と意義とを書き留めておきたいと思った。幸い科研費の補助金をえて,「Computer-Oriented Representation of Organic Reactions」と題するモノグラフを刊行できたのは望外の成果であった(本誌,60,136(2002)に好意的な書評がある。参照されたい)。

 このような思い出ばなしを書いた理由の1つは,ちょっとしたきっかけが,自分の進路を決めてしまうことを言いたかったためである。本誌の編集委員も,有体にいえば,進んで志願したわけでもなく,新しい反応の欄もほかに引き受け手がいないという消極的な動機であった。ちょっとしたきっかけであるが,結果的に,有機合成化学から化学情報学へ研究の重点を移す機縁としてはたらいた。もう1つの理由は,「技術的な問題も,技術レベルで考えるのではなく,基本的なところに戻って考えること」の重要性を言いたかったためである。このことが,上記のモノグラフにつながったと考えている。

 さらに教訓を引き出すとすれば,「有機合成化学やその周辺にはたくさんのやるべき問題が残っているということ」,「これらの問題の解決には様々なアプローチがあるということ」も付け加えたい。本流の実験で解決することもできるし,私がたどったように,情報学の手法によるアプローチや,コンピューターや数学を道具にするアプローチもある。私が留意してきたのは,有機合成化学という出発点を忘れないということである。

(2002年11月25日受理)
ページ更新日
2011年11月7日