公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

勇気と信念そして120%の努力
宮下 正昭


 -光陰矢のごとし- 本年3月の定年を目前に時の流れの早さを改めて実感している。昭和40年4月東北大学理学部化学科中西研究室(中西香爾教授,現コロンビア大学教授)に4年生として在籍し,卒論研究としてイチョウの苦味成分ギンゴライドの構造決定に参画して以来,41年にわたり有機化学の道を歩んできたことになる。

 黎明期を迎えていた天然物合成を勉強したくて修士課程から東北大学非水溶液化学研究所(現多元物質科学研究所)の吉越研究室(吉越 昭教授)に在籍し,博士課程から本格的に天然物合成に取り組んだ。以来40年間天然物の全合成研究ならびに天然物合成を念頭においた有機合成方法論の開発を主題に取り上げてきた。複雑な天然物の合成を行う場合,既存の合成法では不十分な場合が多く,天然物合成は新しい有機合成方法論の開発や高選択的有機合成手法の開発など有機合成上の重要な課題が提起され,天然物合成を通して有機化学がさらに進展し領域を拡げてゆくという私なりの信念をもっていたからである。

 さて,有機合成化学を志している大学院生や若い研究者の方に定年を迎える老教授から体験を通してのささやかなメッセージを贈りたい。ひとつは新しい有機合成に挑戦する勇気を持つことである。それにはモチベーションと強い信念が不可欠である。自分が手掛けてきた分野は経験や自信があり,未知の分野に挑む不安や恐れもないので居心地が良くなかなかその分野から抜け出せない。しかし,持っているものを思い切って捨てなければ新しいものを獲得できないのも事実である。かつて向山光昭先生の講演を拝聴した時「私は3年毎にテーマを変えるが,新しい研究テーマを皆さんに公表して自分の退路を絶ってから開始する」というお話に鮮烈な印象と畏敬の念を抱いた。20年近くテルペノイドの合成に従事してきた私も遅ればせながら40歳を過ぎた頃,新しい有機合成に挑戦したいという気持ちに駆られ,テルペン合成から脱却してクモ毒素の化学合成ならびにポリプロピオネート系天然物(抗生物質や抗癌剤など)の全合成と鎖状有機分子構築法の開発にチャレンジすると宣言した。ジョロウグモの毒素が痴呆症や記憶喪失などの脳疾患の解明のための化学種として非常に注目されていたからであり,また自分の退路を絶つためでもあった。しかし,クモ毒の合成戦略は立てたもののアミノ酸やポリアミン,ペプチドの取り扱いが全く分からず悪戦苦闘の連続であった。やがて扱いにも慣れ2年程でジョロウグモの毒素(ネフィラトキシン)の全合成を内外に先駆けて達成したが,これらの成果は予想外の反響がありChemistry & Industryにハイライトとして紹介され,国内の新聞で報道された。一方,従来の鎖状立体制御法の主役であるアルドール反応は天然物合成を行う上でシリアスな課題を含んでおり,立体特異的鎖状有機分子構築法の開発が不可欠であるという信念から,エポキシドの置換反応を基盤とする10数種の高選択的鎖状有機分子構築法を開発し,天然物の全合成に展開してきた。アルドール反応を一切用いずポリプロピオネート系天然物を高立体選択的に合成するのが筆者らのこだわりである。

 研究は自己との闘いである。筆者の学位論文のテーマはロンジピネンの全合成であったが,合成ルートはすべて自分で立案し遂行した。天は意地悪で,除夜の鐘を聞きながら3リットルの分液ロートを3年間振り続けたくらいでは微笑んでくれない。当時助手をしていたが,最後のルートで駄目なら大学を去ろうと思った時,初めて救いの手を差し伸べてくれた。120%の努力をしないと未踏峰の頂上には到達できないことを身をもって学んだ。強い信念をもって120%の努力をした結果が,たとえ目指していた頂上でなくても十分な滴足感が得られるものと確信する。

 なお「独自の分野を切り拓く勇気」の重要性は玉尾皓平先生が昨年の本誌1月号の巻頭言(Vol.63, No.1)で述べられているので,是非お読みいただきたい。科学技術立国の基盤を成す真摯な有機合成化学の進展のためにも新しい分野に挑戦する勇気と信念をもった若い研究者の輩出に期待したい。

(2005年11月18日受理)
ページ更新日
2011年11月7日