公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

薬学と有機合成化学
井原 正隆


 薬学系の大学では,今年4月から6年制の学生が入学してくる。その比率は大学によって異なるが,薬学系大学が医療に向けてかなり大きくシフトすることは間違いないであろう。このことは薬学の中でも,特に有機合成化学を研究している者にとっては,大きな転換を迫る問題である。薬学とは“くすり”と言う有機化合物を通して医療に関わっており,薬剤師にとっては有機化学を理解することは極めて重要なことである。くすりの化学構造式から物性,安定性,安全性,作用機序などを予測し,医薬品を適切に使用することは薬剤師に課せられた義務である。このことは医学や歯学などの他の医療関係者とは大きく異なるところであり,薬剤師の医療硯場における存在価値となっている。いわんや,新しいくすりを作るには有機化学が極めて重要である。高齢化社会においては様々なくすりのニーズが高まっており,これに応える有効で安全な医薬品の開発は今後ますます大切になってくるであろう。

 創薬は有機合成化学の華であり,究極の目標であると言っても決して過言ではないであろう。薬学から育った多くの研究者が製薬企業や基礎研究の分野で活躍していることは事実であり,私たち薬学系大学にいる研究者,教官はこの伝統を守り,さらに発展させて行く義務があると考える。

 私は長年お世話になった東北大を今春には定年退官で去って行くが,薬学における有機合成化学の将来に大きな危倶を抱いている。薬学の生物系研究者でも,基礎研究を活発に行っている人にとっては,医療への斜傾は必ずしも好ましいことではないと予想される。医療薬学への集中は薬学の有機合成化学者にとってはもっと深刻な問題である。

 ところで,私自身は数年前から創薬研究を合成研究とともに一部ではあるが取り入れてきた。まだ明確な将来は見えてきてはいないが,定年後もさらに創薬研究を続ける計画である。生理活性だけを求めて簡単な化合物を既知の方法を組み合わせて合成していく研究は,アカデミアで行うものではないと思う。しかしながら,薬学における有機合成化学者はアンテナを高くして,なにか面白そうなテーマを探し,これというものを見つけたならば育てていく努力が必要であろう。幸いにして私は定年後も実用化を目指した創薬研究をしばらく楽しめそうである。このような理由から,薬学の中で有機合成化学を行ってきたことは,私にとって大変幸運であったと考えている。

 ところで,創薬研究を行っている過程で,私が薬学で合成研究を行うことの大きなメリットを学んだ。それは,薬学部の学生で有機化学が大好きで,私の研究室に集まる学生の中には,5人に1人くらいの割合で,生物学的な研究に全く抵抗を持たないことである。私には到底できないことであるが,私の研究室にはマウスの尾静脈注射を巧みに,平気で行うことができる学生が何人かいる。尾静脈注射は難しく,生物系の学生でもなかなかうまくできない技術である。このことは薬学において,創薬を指向した有機合成化学者を育てる意義を示唆していると思う。すなわち,薬理学や薬物動態学を有機合成化学と一緒に学んだ者の強みがある。

 立体化学的に複雑で,合成困難な分子をターゲットとする精密有機合成化学は,学生の教育に適しており,また新しい有機合成反応の発見にもつながることから,大学での理想的な研究のひとつである。一方,安価で簡単に,かつ大量に合成できるものを標的として類縁体合成を行うことは,大学では問題がある。しかしながら,研究者自身が将来の展望に確信を持てるならば,このことも許されると思う。それには,単なるものづくりには終わらせない,発展性が重要となる。その仕事の意義を学生に十分理解させることができれば,彼らも乗ってきて活発な研究を展開できるであろう。薬学の有機合成化学者が皆で,創薬研究を行う必要はない。でも,時には,人に役立つことも考えて研究を行うことが大切であると思う。

(2005年11月18日受理)
ページ更新日
2011年11月7日