公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

合成標的化合物の選択
橘 和夫


 有機合成化学の研究には,ある化学変換反応や反応試薬に関して適用範囲を広げる,収率や種々の反応選択性を極める,あるいは固相合成など操作性,経済性を高めるといった分野と並んで,設定した化学構造式を多段階で作るという標的合成がある。ここで標的に設定される化合物の代表例は天然物分子であり,他にはキュバン,プリズマン,ひいてはフラーレン(これは実は天然物)など,構造の芸術性を見据えたものもあるが数は少ない。こうした標的合成の多くは設定した目標を達成するという研究者の自己満足に端を発していると思えるが,この過程で遭遇した困難を克服しようとする段階で新しい化学反応やその適用範囲の発見に至ることで,化学ひいては科学に貢献してきた。無論これ以外にも,本号にもあるように反応性の高さ故に,従来は安定に取り出せなかった官能基を立体保護により観測可能とすることでその構造や反応性を調べる,または理論的に予測された物性を検証し,あわよくば実用に供するといった目的で設定された標的は多々あるが,これらは合成自体が目的ではなく,また合成の達成のみでは通常は論文にならない。これに対して天然物合成では,特定の化学構造に起因する収率や選択性などの問題に反応条件の検討など多少の対処はしているものの,基本的には既知の反応を組み合わせることで「できました」で終わっており,「だからどうした?」と聞きたくなる論文も多く見られる。

 話変わって,われわれ「ものとり屋」が生物材料から新規生理活性物質を単離しその化学構造を決定する目的は,「合成屋」の皆さんに全合成の標的を提供することだけではない。かつては結晶化しない未知試料に関して,得られた分光データを満足する複数の平面および立体構造式から,正解を得るための誘導化や分解反応をいかに選ぶかという謎解きの楽しみ(これも自己満足)があり,全合成と同様にその過程で新しいロジックを考える必要に迫られた結果,これが一般的に適用可能な新しい方法論になることもあった。しかし近年では特に二次元NMRでのハード,ソフト両面の進歩により,この段階は経験こそ必要ではあるがルーチン化されつつあり,構造決定の過程自体はサイエンスとはいえなくなった。ここで評価されるのは,広い意味でのある生物現象とこれに関わる化学構造を結びつける新発見であり,構造決定はその一手段になっている。このように方法論開発を要しない構造決定は,例えば,研究対象分子の生理活性発現を化学構造で説明可能にするといった構造決定以後に研究の主たる目的を置くことを要求されている。

 話を元に戻すと,上述した理由で天然物の合成研究も近々同じ運命をたどる兆しがすでにある。「ものとり屋」からの興味ある化学構造式の提供が下火になった今,特に製薬企業などでの合成標的の多くはコンピュータが提示した化学構造式であろう。筆者の所属する東京大学の学生には問題解きのプロが数少なからずおり,彼(女)らの多くは「標的をもらえば作ってみせます」というタイプでブランド学歴も手伝い即戦力としてではあるが民間企業からの需要は大きい。しかし,こうした問題解きは天然物の構造決定同様,技術ではあってこそ科学ではなく,コンピュータによる標的設定では合成の都合も加味できることもあってかどうかは分からないが,合成だけでは論文になった例はあまり聞かない。

 コンピュータがすでに行っているように,これからの合成は天然物の構造決定同様,それができたら何が分かるという基準でその標的が設定されるであろう。何も天然物分子そのものにこだわらなくても,天然物からの誘導が困難かつ天然物以上に作ってみる価値のある類縁体はいくらでもある。特に有機合成化学に携わる若い研究者諸君には,技術者を目指すのであればともかく,科学者を目指すからには与えられた標的を作るだけではなく,それを合成する意義を見据えた上で研究を進めていって欲しい。自然の解明たる科学の過程で有機合成自体はその研究目的としての意義を失っても,化学者にとって大きな武器であることは当然のことであり,今後もそうあり続けるであろう。

(2007年6月6日受理)
ページ更新日
2011年11月4日