公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

35年前の実験から思う
畑山 範


  私の研究歴は35年前の,とんでもない実験から始まった。当時,MITのBtichi研から戻られたばかりで助教授だった小笠原國郎先生(東北大学名誉教授)から頂いた4年次卒業研究のテーマは,アスピドスペルマインドールアルカロイドの合成であった。まず,トリブタミンの合成から取りかかった。トリプトファンを200 ℃以上の高温で脱炭酸する強烈な実験である。さらに厄介なのはその蒸留である。沸点が高いばかりか,出てきたトリプタミンがすぐに固化して蒸留管が詰まってしまう。従って,時々赤外線ランプで照らしながら蒸留を行わなければならなかった。極めつけは,蒸留残渣の耐え難いスカトール臭であった。糞様悪臭である。この実験を何度も繰り返して100 g以上のトリプタミンを合成した。次に待っていたのは,4位にエチルエステルを持つシクロヘキサノールの合成である。これは恐怖の実験であった。4-ヒドロキシ安息香酸エチルエステルを100 ℃,100気圧を超える高温高圧下でベンゼン環を還元するのである。何せモルスケールの大量合成なので,まず,Raney-Ni触媒の調製で発火の恐怖を味わい,次に,オートクレーブのゲージを見ながら,爆発の恐怖を味わうのである。運を天に任せ,この反応も何とかクリアした。しかし,4年生の初心者にはまだまだ試練が押し寄せる。それはTsS(CH2)3STsの合成である。硫化鉄と硫酸から発生させた硫化水素をアルカリに通し,トシルクロリドと反応させTsSKとし,これを1,3-ジブロモプロパンと反応させて合成した。その間の悪臭との闘いは想像を絶するものであった。しかし,キラキラと光るTsSKの椅麗な鱗片状結晶を見たときの感激は昨日のことのように思い出す。当時,私はバスで大学に通っていたが,スカトール臭や卵の腐ったような臭いをバス中に振りまいていたのであろう。いつも乗客が変な目で見ていた。異性が大いに気になる気の弱い学生にとっては何とも耐えがたい試練であった。TsS(CH2)3STsの合成は,そばにいた小笠原先生が見かねていたのであろう。その後,樹脂を利用した無臭に近い素晴らしい合成法を開発した。プチルリチウムのヘキサン溶液の作成にも挑戦した。リチウム金属と塩化プチルから作るのだが,滴定してはがっかりしていた。そうこうしているうちに市販のプチルリチウムが手に入るようになり,その活性には感激した。うまくできなかったという悔しい思いはあったが,ブチルリチウムから解放され,正直ほっとしたのを覚えている。何をするにしても,まず試薬の合成から始めなければならないような状況であった。お陰で,再結晶や蒸留といった有機合成の実験の基礎技術を,4年生のうちにほぼ身につけることができた。また,大量実験を通して,実験の怖さを肌で感じ,いかに自分で工夫して要領よく実験を行うか,実験のhow toを身につけることができた。同時に,なりふり構わず目標に向かってチャレンジする精神もたたき込まれたように思う。私と同年代あるいはそれより年配の方は,誰でもこのような体験をしてきたはずである。しかし,今ではこの状況が一変し,有機合成の知識や技術の体得が難しくなってきているように思える。ご存じのように,市販の化合物が質,量ともに充実し,測定機器も飛躍的な進歩を遂げ,実験のスケールが比べものにならないほど小さくなっている。さらに,昨今の「評価」に対するプレッシャーから,ついスピード重視の話題性のある研究を追い求め,モルスケールの原料や試薬の合成などと悠長なことを言ってはいられない。もちろん,実験の効率性や成功率から見ると,私が4年生であった35年前と今とでは隔世の感がある。一方では,結果に汲々として,コンピュータでの反応検索に頼り,新たなことにチャレンジしない,独自性のない研究も増えているのではないだろうか。生命科学やナノ科学の急速な進展に相まって,今こそ精密合成に立脚した「ものづくり力」の格段のレベルアップが必要であるとされている。そのためにも,私たちは,若い研究者に有機合成の基本となる知識,技術,チャレンジ精神を伝えていかなければならない。また,若い研究者は,資金獲得とか評価のための研究ではなく,真に独自性,新規性をもったスケールの大きな研究を目指して欲しい。

(2008年9月4日受理)
ページ更新日
2011年10月25日