公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

創薬研究と有機化学にかける思い
長瀬 博


 私は東レに入社して以来28年間医薬の研究に従事してきた。当時のテーマはプロスタグランジン(PG)を何とか薬にするというものであり,1976年にPGI2の歴史的発見があり,夢の抗血栓薬として世界中の研究者がその全合成や誘導体合成を行った。我々も論文を読み,すぐに着手したが,当時は小野薬品工業やアップジョンといったPGに特化した会社が多くの研究者をそろえて研究していた。一方,我々は合成3名,薬理3名の少人数で研究し,いわば竹槍でミサイルと戦うような状況であった。そのような状況のため社内外の誰も我々がPGI2の経口剤の開発に成功すると思っていなかった。そこで,本来の医薬研究をしている中から見つかった有機化学の新反応を,論文にするためだけに土日に会社にきて実験することができた。このような心の余裕が我々に味方をしてか,世界で初のPGI2の経口剤の開発に成功してしまった。この成功をきっかけに東レは本格的医薬開発に集中することになり,あっという間に200人体制ができあがった。このように会社の期待が大きくなったために,新しいことをじっくり考えたり,副生成物を追求する心の余裕がなくなり,かえって独創的新薬が出なくなったような気がする。幸い,私自身の研究者としての性質から研究に集中すると周囲を気にしないようになるため,もう1つの新薬であるオピオイド作動薬を止痒薬としての適用で現在承認申請まで進めているが,それでも有機化学的な興味からいったらPGの研究をしていた時の方が充実していた。特に研究管理者になってからは副生成物を部下に積極的に追求させるような姿勢がなかなかとれず,欲求不満に陥っていた。

 このような思いを胸に3年前に大学に異動し,創薬研究を開始した。大学では設計した薬物の構造を示してその合成をするよう指示をするが,反応の際に得られる副生成物は必ず分離して構造決定するように指導している。最近,その成果が段々出てきて新反応や転位反応が見つかってきている。誰か1人がこのような成功体験をすると他の学生との競争心も手伝い,多くの学生が副生成物を見逃さなくなる。さらには,反応条件の検討によりその副生成物を主生成物にまでできると,もう学生はほっておいてもその手法を実行するようになる。創薬の分野ではこの副生成物が,えてして素晴らしいリード化合物となり,ブロックバスター(1000億円を超える売り上げの新薬)に大化けすることも少なくない。大体,人間の考えることは知れており,世界で少なくとも3人は同じ考えの人間がおり,同時に同じ研究をしているようである。しかし,偶然見つかった反応は人知を超えたもので,圧倒的に人に水をあけることができる。ここまでくるともう研究が楽しくてたまらず,研究依存症ともいえる状態になる。これがいわゆる成功体験となる。会社の研究管理職をしていた時に感じていたことの1つに,大学で教官は「小さくても良いから成功体験をさせて会社に送り込んでもらいたい」ということと,「創薬の教育を薬学部でやってほしい」ということであった。現在,ところを変えて,大学の教官をしており,自分が会社で感じたことを何とか実行しようとしている。成功体験のある研究者は逆境に強く,研究が行き詰まっても腐ることなく,いつかは成功に繋がる研究を行うものと信じている。一方,創薬に関しては昨今のゲノム・バイオブームに加え,薬学部では薬剤師志向が強く,物作りが軽視される傾向にある。有機合成を基盤とする創薬を志す研究者を薬学部で育成していかないと独創的新薬が日本から創出されなくなる恐れがある。しかし,会社での創薬の経験のない教官が真の創薬の教育をすることは困難な場合が多い。そのため,企業の研究者をもっと大学での教育に関与するような教育体系の確立が望まれる。現在,私は企業での創薬の経験を生かし,大学院生に私の持っている知識を吹き込み修士修了時には何とか創薬の基礎を習得し,製薬会社に入社後は即戦力として活躍できる学生の育成を目的として教育に励んでいる。

(2007年11月19日受理)
ページ更新日
2011年10月25日