公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

有機合成化学研究者の育成
北村 雅人


 昨年の暮れにシンガポールの南洋理工大学を訪れる機会を得た。淡路島ほどの国土の西端に確たる一角を占めるキャンパスは広く美しく,自然と調和している。意気揚々と構内を闊歩する学生達の目力は強く,頼もしく感じた。竣工間近の化学棟は英国オックスフォード大学のケミカルリサーチラボラトリーの1.5倍の大きさという。費用も6,000万ポンドの1.5倍なのだろうか。学生実験室にさえ400のドラフトが設置されている。実験室と居室は透明の強化ガラスで仕切られ,3,4メートルの幅で何十メートルと居室が続く。大学院生一人当りのデスクは2メートル近くあるのではないだろうか。とにかく圧倒された。その程度は上海有機化学研究所の新棟を見学したときに優るとも劣らない。彼らいわく,「世界中の優秀な学生をここに集結し,生活費の心配をさせることなく,最高の環境で大学院教育する。そして産学官を問わず世界の拠点に送り込む」とのことだ。同時に,優秀な研究者をヘッドハンティングして研究水準を高める。シンガポール出身の優れた人材を外に出し,また外から逸材を取り入れる。国際水準での人の流通の円滑化を介して,教育研究ネットワークのハブ的存在となる考えである。パイレーツオブカリビアン第三作の舞台がシンガポールであることも頷ける。

 翻って,わが国の状況はどうか。80を越える国立大学を擁する日本国と二つしかないシンガポールとの比較には注意を要するものの,多くの点で劣勢の感を否めない。人材流通の観点からは,間違いなく遅れをとっていよう。少なくともアジア圏内での人の循環から孤立化してはならないように思うが,現状は閉鎖的だ。「ジャパンアズナンバーワン」の亡霊を払拭し,近隣諸国の加速度的成長ぶりを直視したい。その一方で,天然資源が少ない上に,地震・台風・津波・噴火が頻発する不安定な国土に住む私たちの心に,古よりしっかりと育まれてきた,「節約と互助の精神をもって黙々といいものをつくる」文化を世界に誇るべきである。「有機合成」や「全合成」はその最たるものであり,その分野に携わる,質の高い人材の育成はわが国の将来に大きくかかわる問題である。ナノやバイオを冠するサイエンス&テクノロジーがもてはやされる昨今であるが,その基盤にも有機合成があることを忘れてはならない。その知識・技術の後進への発展的継承は必須であり,最高学府である大学院はその責務を担っている。ものつくりの性格上,講義室よりも実験室での教育が中心となることはいうまでもない。高度な合成・解析技術の伝授にかかる費用は決して安くなく,反応剤・溶媒・ガス・分離精製資材・ガラス器具などの基本的消耗品に限っても,院生一人当たり年間50万円を優に越えよう。この育成費用の多くが研究費によって賄われているのが実情であり,研究費がなければ実験教育もできない状況にある。学生達は本来,平等であり公平に教育を授けられて然るべきであるが,隣の研究室では高価な実験を体験することができ,その隣の研究室では実験禁止令が出される。科学研究費補助金の採択率は約25%とのことであるので,お向え両隣で禁止令ということだ。これでいいのだろうか。朝日新聞の私の視点(平成19年11月19日)に野依良治先生が,「政府には「実験教育」支援の格段の充実を求めたい」と書かれている。本当にそう思う。

 教育の質を高めるための指導者側の努力に加え,修業の身にある学生側の心構えも大切だ。有機合成系の研究室への入門は弟子入り的要素が高いと昔からよくいわれる。様々な危険な物質を取り扱い,それらを混合するのであるから,予期せぬことが必ずおきる。緊張感をもって,現場のプロ実験者との密接連携が不可欠だ。学生にとっては,研究室は基礎学力や専門知識などの技術的能力を高める場でしかなくても,彼らにも「アクション・シンキング・チームワーク」の行動能力が求められる理由の一つである。幸いなことに,有機合成を志す学生の多くがこの社会人基礎力に富む傾向にある。一見,気力や目力に欠ける印象を与える学生もいようが,これは謙虚さの現れであり,秘めたる信念は強い。そして最も重要なことは,わが国にはやはり黙々と実験するのが好きな学生が多いことである。この秀逸な「ものつくりDNA」をもつ若人をガラスの器を扱うように丁寧に育成することによって,わが国の有機合成の底力はより一層強くなると確信している。

(2008年2月21日受理)
ページ更新日
2011年10月25日