公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

有機合成が活躍するナノ材料の化学
伊与田 正彦


 「20世紀は産業のエレクトロニクス化の時代であった。21世紀は産業の化学化の時代だ」と言われている注)。その具体例の一つとして、電気の供給源が電磁現象を使った発電から燃料電池に変わっていくことが挙げられる。生活の中心を占める電気の供給源が物理現象から化学現象へと変わっていく意義は大きい。

 大学で研究する立場から自然科学全体を眺めてみると,21世紀は「ナノサイエンスの時代」である。ナノの世界は物理現象を扱っており,有機合成化学者にとってナノサイエンスは,はるか彼方の別世界であるとの考えもあるが,現実はその逆でナノサイエンスは高度の有機合成を必要としている。有機合成化学者が複雑な化合物の分子設計と合成を提案できる場を提供しているのだ。

 ナノサイエンスと有機合成の関係を書く前に,有機合成の最近の動向をふり返ってみよう。20世紀の最後の20年間に有機合成化学は目覚ましい進歩をとげ,その結果,難しい構造をもった天然有機化合物や生理活性物質の全合成が次々に発表された。また,それらの新薬への応用も華々しかった。これに対して,有機機能材料の化学も目覚しい進歩をとげ,有機合成化学者もそれに寄与したが,実用化を目指していたので,その対象は合成が容易で比較的簡単な化合物に限られていた。その結果,有機EL素子や有機FET素子を作る場合も,分子設計と合成は簡単で高収率であることが求められ,高度の有機手法は必要ない場合が多かったのである。

 この状況は今でも変わらないのだが,少し先を考えたナノサイエンスでは単分子を用いるエレクトロニクスがすでに始まっており,その場合には使用する分子はナノサイズで比較的複雑な構造が要求されている。例えば,グラファイトや金の表面に分子を並べて走査トンネル顕微鏡(STM)で観察する場合には,分子はかなり大きくなくてはならず,また,分子に探針を当てて機能を出すには有機分子の決まった位置に官能基を導入しなければならない。

 単分子デバイスは,先に述べたナノサイズの分子を用いた機能性素子であり,必要とされる機能は主に物理学者が設計するが,その基本概念に基づいて分子を設計し合成できるのは有機合成化学者のみである。有機化学者にとって物理の概念は頭の痛くなるような数式と難解な専門用語のかたまりであり,理解できる範囲を越えている場合が多いが,物理学者にとっても複雑な構造を持った有機分子が奇妙なルートで作られていく過程を楽しむ余地は全くないと言ってよい。しかし,最近は物理学者が化学との連携の重要性に気づき,化学者より先に「物理と化学の連携」を提案しだした。その結果,科研費等の物理の研究グループに有機合成化学者が参加する機会も増えている。

 これからの社会にとってライフサイエンス,環境問題,エネルギー問題は非常に重要であり,化学者の多くがその関連分野の研究に従事するであろう。しかし,これらの分野のみが技術革新の担い手となることはなく,近い将来,ナノエレクトロニクスも我々の生活に入り込んでくることが予想され,有機合成はその基礎を作る際に重要な役割を担うことになる。

 私は学部,大学院修士課程で天然物合成を学び,博士課程から構造と物性の研究を始めた。また,大学では有機合成を主体に物理有機化学的研究を進めてきた。その観点から若い有機合成化学者に期待するのは,柔軟な思考のできる時期に,いろいろな基礎知識を広くかつ深く取り込んでほしいということである。

 馬力ではまだ現代の若者に負けないと思いつつ,来年3月末で大学を定年退職するが,趣味と実益を兼ねた有機合成を末永く楽しみたいものである。

注)日本化学会第86春季年会「2030年の社会と物質化学」シンポジウム報告書より引用。

(2009年7月6日受理)
ページ更新日
2011年10月24日